333
3という番号は、他の番号と比べるとすごく馴染みがあり、良いなと個人的に思います。3という番号は、何かの課題を『力強く語る』時に使用されます。3の番号を使うと、それが凄みを増す様な感じがします。世界感、絶頂感が出てきて、有名な事柄のようです。威厳や権威があるようにも感じます。
例えば、『世界の3大夜景は、サンフランシスコ、リオデジャネイロ、香港です』と言われた時には、そこ以外の夜景はたいしたことが無いのだと思って信じてしまいます。3の番号の効き目が「どーん」と出ています。日本では、3大公園、3大湖、3本の長い川、3つの高い山、三指本に数えられる有名人 とかが巷で言われて、やはり3の番号が使用され、それらの偉大さを誇張しています。余談ですが、3の背番号をいただいた長島監督は、野球の世界では偉人と纏わられています。息子さんも偉人です。
私にも、『3の番号』のエピソードがたった一つあります。1990年代は日本刀の修理修繕を習得し、刀鍛冶の弟子にさせてもらい修業致しました。日本刀関連のいろいろな修復作業もさせられ、今日に至っています。日本刀の修理修繕の技術は私の財産です。誰も、私から盗めないものです。修理修繕の究極の奥伝、口伝、秘伝等も師匠から伝授され、日本刀関連の研磨や工作の知識も植えつけさせていただきました。訪日も、修行中は30回以上致しました。1996年は、年内に9回の訪日を致しました。夏の暑い3ヶ月間(六月、七月、八月)は避けて、気候の良いサンフランシスコに私の家族と一緒にいたのです。
1990年代は、師匠の谷口先生と一緒にアメリカ中を周り、ガンショウ、骨董市、刀剣ショーにも参りました。武者修業の長い旅路でした。鑑定の付き添いをし、種々の日本刀関連の人々と話し、通訳、翻訳をさせていただきました。1993年の夏は、シカゴでの刀剣ショーにも参り、各ディーラーのテーブルを訪れて、谷口師匠直々の鑑定に立ち合わせていただきました。そのディーラーの一つに17世紀始めの頃に製作された脇差がありました。その脇差は、専門用語では新刀と呼ばれています。新刀は、時代的には1596年から1764年までに製作された日本刀を意味しています。脇差とは、中位の長さの日本刀で、刃渡り(または、刃長)が30センチ以上で60センチ未満です。江戸時代には、侍が腰に指した大小の刀の短い方が脇差です。江戸時代には、徳川家では定寸(じょうすん)の脇差の長さを設定致しました。脇ざしの刃渡りは、一尺七寸(51センチ)です。他にも脇差を区別する言葉があります。大脇差、中脇差と小脇差です。
シカゴで遭遇した脇差には、銘が茎に『肥前国忠吉』とあり、世に言う五字忠吉(ごじただよし)、または、五字忠(ごじただ)です。銘に五文字の漢字が鏨で切られています。私も、この五字忠吉の脇差を拝見させていただき、本物の忠吉と思いました。師匠は、本物と鑑定した理由を聞くので、長さや地肌のことをおおまかに言いました。しかし、『肝心な銘の説明は、どうなんだい?』と、東京弁で聞かれ、返答ができなくて迷っていました。
師匠は丁寧な説明を私にしてくれました。その説明の前に、熱く語るのです。『貴方は、私の唯一の米国でのお弟子さんなので、忠吉の銘に関する秘伝を伝授します』と申されました。なんと嬉しいことを言って下さる師匠ではありませんか。私は実に実に感謝感激してしまいました。そして、付け加えたお言葉にもっともっと興奮を覚える私でした。『今から伝授する秘伝内容は、世界一の鑑定家の得能一男先生と私以外には誰も知らないのです。よく聞き入れるように』と、忠告のような語り振りです。そして、師匠はお言葉を続けました。『この情報内容は、世界に三人しか知っている者がいない事柄です』私は、こんな名誉のある事柄を承ることになりました。そして、『肥前国忠吉』の銘に関する秘密の情報を鄭重に受け賜りました。これは、勲章やメダルやバッジなんかのくだらない物をもらうよりすばらしいことで、名誉なことです。
私は、世界で三人しか知らない情報を受け賜りました。最高!感謝!感激!
例えば、『世界の3大夜景は、サンフランシスコ、リオデジャネイロ、香港です』と言われた時には、そこ以外の夜景はたいしたことが無いのだと思って信じてしまいます。3の番号の効き目が「どーん」と出ています。日本では、3大公園、3大湖、3本の長い川、3つの高い山、三指本に数えられる有名人 とかが巷で言われて、やはり3の番号が使用され、それらの偉大さを誇張しています。余談ですが、3の背番号をいただいた長島監督は、野球の世界では偉人と纏わられています。息子さんも偉人です。
私にも、『3の番号』のエピソードがたった一つあります。1990年代は日本刀の修理修繕を習得し、刀鍛冶の弟子にさせてもらい修業致しました。日本刀関連のいろいろな修復作業もさせられ、今日に至っています。日本刀の修理修繕の技術は私の財産です。誰も、私から盗めないものです。修理修繕の究極の奥伝、口伝、秘伝等も師匠から伝授され、日本刀関連の研磨や工作の知識も植えつけさせていただきました。訪日も、修行中は30回以上致しました。1996年は、年内に9回の訪日を致しました。夏の暑い3ヶ月間(六月、七月、八月)は避けて、気候の良いサンフランシスコに私の家族と一緒にいたのです。
1990年代は、師匠の谷口先生と一緒にアメリカ中を周り、ガンショウ、骨董市、刀剣ショーにも参りました。武者修業の長い旅路でした。鑑定の付き添いをし、種々の日本刀関連の人々と話し、通訳、翻訳をさせていただきました。1993年の夏は、シカゴでの刀剣ショーにも参り、各ディーラーのテーブルを訪れて、谷口師匠直々の鑑定に立ち合わせていただきました。そのディーラーの一つに17世紀始めの頃に製作された脇差がありました。その脇差は、専門用語では新刀と呼ばれています。新刀は、時代的には1596年から1764年までに製作された日本刀を意味しています。脇差とは、中位の長さの日本刀で、刃渡り(または、刃長)が30センチ以上で60センチ未満です。江戸時代には、侍が腰に指した大小の刀の短い方が脇差です。江戸時代には、徳川家では定寸(じょうすん)の脇差の長さを設定致しました。脇ざしの刃渡りは、一尺七寸(51センチ)です。他にも脇差を区別する言葉があります。大脇差、中脇差と小脇差です。
シカゴで遭遇した脇差には、銘が茎に『肥前国忠吉』とあり、世に言う五字忠吉(ごじただよし)、または、五字忠(ごじただ)です。銘に五文字の漢字が鏨で切られています。私も、この五字忠吉の脇差を拝見させていただき、本物の忠吉と思いました。師匠は、本物と鑑定した理由を聞くので、長さや地肌のことをおおまかに言いました。しかし、『肝心な銘の説明は、どうなんだい?』と、東京弁で聞かれ、返答ができなくて迷っていました。
師匠は丁寧な説明を私にしてくれました。その説明の前に、熱く語るのです。『貴方は、私の唯一の米国でのお弟子さんなので、忠吉の銘に関する秘伝を伝授します』と申されました。なんと嬉しいことを言って下さる師匠ではありませんか。私は実に実に感謝感激してしまいました。そして、付け加えたお言葉にもっともっと興奮を覚える私でした。『今から伝授する秘伝内容は、世界一の鑑定家の得能一男先生と私以外には誰も知らないのです。よく聞き入れるように』と、忠告のような語り振りです。そして、師匠はお言葉を続けました。『この情報内容は、世界に三人しか知っている者がいない事柄です』私は、こんな名誉のある事柄を承ることになりました。そして、『肥前国忠吉』の銘に関する秘密の情報を鄭重に受け賜りました。これは、勲章やメダルやバッジなんかのくだらない物をもらうよりすばらしいことで、名誉なことです。
私は、世界で三人しか知らない情報を受け賜りました。最高!感謝!感激!