スチュアートさん
ジェットに乗って来る剛者
スチュアートさんは1989年の秋ごろに入門しました。最初は日本刀の鑑定法、日本の歴史、日本語を毎月の勉強会と日曜日の朝の10時から午後3時までのクラスと毎週の金曜日夕方のクラスに常時来て学んでおりました。近い将来は「剣術と試し切りを習いたい」としきりに言っていました。
入門してから六ヶ月程経ち、ある金曜日の夕方のクラスの後、個人的に話したいことがあると申すので、他の生徒が帰った後に道場で話を聞いてあげました。彼は言いました。「私は見てのとうりの黒人です。そして、今まで他の生徒にも言いませんでしたが、私はオカマです」。個人的に私は、そのことについては別に変な風には思わないし、スチュアートさんが、日本刀と日本のサムライの歴史を大好きなのは不変的なものでしょうから、その事実に感謝感激致しています。これからも変わりなく、日本刀の鑑定士か歴史家になれる位に勉強してがんばって下さいと、励ましてあげました。日本刀を愛して尊敬する人に隔たりや国境はないのです。絶対にあってはいけないのです。スチュアートさんに種々な面で貴殿を守ってあげると約束しました。
1991年の3月に最愛の妻のクララさんが長男を生みました。長男は、生まれた時からいつも家に出入りしていたスチュアートさんと話したり、遊んでもらったりしています。7歳違いの次男も、同じく生まれた時からスチュアートさんにかわいがられています。家族と一緒に撮った写真がたくさんあります。また、家族とスチュアートさんだけでクリスマスを過ごしたこともあります。家で夕食を一緒に食べたこともたくさんあります。桑港日本刀協会の会員で、私の家に出入りする人は余りいません。5人ほどでしょうか。スチュアートさんはその内の一人です。
日本刀がを愛し尊敬する人は、ヘテロでもホモでも関係のないことなのです。スチュアートさんは、自分の立場を良く知っていて、Gentlemanであり良き生徒です。良い生徒に恵まれたら、好きな趣味を伸ばしてあげるのが本当の先生の仕事です。私は、日本に師匠や先生が数人いて生徒の立場です。米国では、自分は先生の立場なので、生徒と先生の両方の立場を誰よりも理解できるのです。
1980年代後半から1990年代前半にかけて、スチュアートさんとスティーブさんと三人でロスの近くの米国最大の「Pamona Gun Show」に毎年5月と10月に通っていました。私は、この米国最大のガンショウ会場でかなりの数の重要文化財や重要美術品の日本刀を発見しました。スチュアートさんもスティーブさんも、このガンショウの会場でかなりの数の掘り出し物の日本刀を見つけました。たまには、三人ではなく違う生徒と五人でこのガンショウに行ったことも数回あります。旅は道ずれで、ものすごく楽しい時を彼らと一緒に過ごさせていただきました。一生忘れません。この米国で最大級のガンショウは、ついに1999年に亡くなってしまいました。残念です。理由は、ガンショウが少数派の人間には理解ができないことに起因しています。彼らの拳銃やライフル、ショトガンに対する考えが幼稚で貧弱です。無知は哀れです。生まれ変わったほうが良いのです。
スチュアートさんは、2000年の春にUnited Airlineのフライトアテンダントになり、日本、イギリス、ドイツ、イタリア、フランス、中国などと米国の各州を飛び回っています。ジャンボジェットに乗って日本刀を習いに来る人はスチュアートさんだけです。シカゴに住んでいた2002年頃より、剣術と試し切りを習いにスチュアートさんは、飛行機に乗ってサンフランシスコに 来るようになりました。2004年の3月と4月には、スチュアートさんとRedwood Cityの中学校教師のブライアンさんと私の三人で、英国を本拠地とするドキュメンタリー制作会社の『ヒストリーチャンネル』に登場させていただきました。つぶやきのセクションに詳細が書かれています。読んで下さい。
2005年、06年、07年の三年連続で、スチュアートさんに4月に行われるサンフランシスコ日本町の桜祭りグランドパレードに参加していただきました。剣術と試し切りが他の人よりも長けています。長い足がとても機敏に動き、長い腕からは真剣での抜刀術と試し切りの動作が自由自在に流れるように醸し出されてます。
剣術を習い始めた頃、スチュアートさんと練習していてびっくりしたことが何度かありました。足運びで、すり足とか跳び足の術がすばやく、猫かウサギを見ているようなのです。二段階と三段階の切り込み技術も簡単にやってのけます。すごい運動神経が良い生徒がいるんだなと思いました。そして私の頭にあることがよぎりました。1936年に行われた夏のベルリンオリンピックで4個の金メダルを獲得したアフロアメリカンのジェッシー・オウエンズです。8月4日には100メートルのダッシュ、次の日は200メートルのダッシュ、幅跳びそして最後は4人のリレーでGold Medalです。「すごい」としか言いようが他にないのです。アーリア人種はどうしたの? 白人の上位説は? 黒服のSS髑髏旅団の親衛隊に護衛されてオリンピック会場にいたアドルフ・ヒトラー総統は、アフロアメリカンのジェッシー・オウエンズとの握手を拒んだのです。
スチュアートさんと剣術の練習を道場で二人だけですることがよくありました。私の技術の六割強をやってのけるのです。びっくりです。尋常な人間はせいぜい三割程度です。スチュアートさんは逆立ちもできます。他の生徒は誰もできません。太りすぎと、腕が貧弱すぎる体と私は思います。スチュアートさんの開脚は165度ぐらいです。私の開脚180度を見て、どうしてできるのかといつも聞きます。私は生まれつき体が柔らかく、母の清子さんは83歳の時に座って伸ばした自分の足のつま先に、手が届きました。遺伝からの体の柔らかさを実感してます。スチュアートさんは特別な腕たて伏せの三種類もできます。コレは、相当に訓練しないとできないことですが。一般人には絶対に無理です。人類の99%ができないでしょう。
スチュアートさんと練習の後よくJ&Aレストランに行きました。中華料理屋です。ママとパパがいて面白い夫婦です。名字は林。二人はとても働き者です。英語はあんまり上手ではありませんが良い人達です。このレストランには、毎月の勉強会の時に、他の生徒と共に一ヶ月に一度は通っています。スチュアートさんは、この二人の夫婦にUnited Airlineの航空券を安く手配したことが4回あります。二人は大喜びです。この林さん夫婦は、日本、中国本土、韓国、エジプト、ヨーロッパを旅行しました。この航空券を安く手配したことから、スチュアートさんが人間味のある人柄だと伺われます。
剣術を習う前、スチュアートさんは自信に欠けていて、いつも自殺を考えていたそうです。彼は言いました。「私は黒人でホモだから、他人から無視されたり差別をいつも受けている」と。今は、剣術と試し切り、空手術もできるので、自信が出てきたそうです。スチュアートさんからいろんな話を聞きました。自分がホモであることに気付いたのが5歳の頃と言っていました。中学生頃から自分を嫌いになったそうです。しかし、お母さんがいつも 彼を励ましていてくれたそうです。父親はどこにいるのかも知らないそうです。異父兄弟がいて、相当に悪い奴だと言っていました。私は彼を見ていて、前向きにいろんなことを考えて、元気に生きてる人です。
スチュアートさんはロスで生まれて、モデストで育ったそうです。一度、そこに日本刀の鑑定に行ったことがあります。ある日本刀のディーラーがいて、刃長が二尺六寸五分の埋忠明寿が造った珍しい平造りの豪刀があるというのです。そのディーラーの父親に、スチュアートさんは高校生の時に居合い道を習ったことがあると言うのです。早速、私のVWのThingのConvertibleに乗ってモデストに向かいました。サンフランシスコからヨセミテ国立公園に向かって行く距離の半分です。二時間くらいで到着しました。スチュアートさんの育ったモデストは静かな田園風景の町で、種々の樹木が立っています。日本刀のディーラーの家に到着し、合計五振りの日本刀を拝見しました。全部偽銘でした。鍔屋小道具が少しあって、その中の太刀鍔を私は買いました。平安時代の太刀の鍔用にしたかったからです。色が私が持っていた他の金具と一致していたからで、大きさも丁度良かったのです。この長旅で、太刀の鍔が買えたので悔いはありません。
一度スチュアートさんに大小の日本刀を見つけてあげました。大刀は豪刀です。時代は幕末。刃渡りは二尺六寸あります。無銘ですが、相州伝の優作刀です。小刀の方は無銘の脇差で、江戸の新刀鍛冶が200年前に製作したもので、大磨り上げです。大小共に、刃紋は直ぐ刃です。拵え金具の目抜き、縁と頭が鯰のデザインです。この大小の日本刀の価値は約200万円です。スチュアートさんの日本刀収集物件の中に価値あるものがたくさんあります。
彼は一度、E-Bayのオークションで小太刀を1570年代の末古刀と勘違いして買ったことがあります。値段は1800ドル払いました。私が鑑定をし、700年経った小太刀だと言うとびっくりしていました。できたらこの小太刀を誰かに売ってほしいと言うので、一週間後に他の桑港刀剣協会会員に3500ドルで売ってあげました。コミッションフィーを払いたいと言うので、断って貴殿のVisa Cardの支払いに廻せとアドバイスしました。スチュアートさんは大喜びです。でも今度E-Bayから日本刀を買うときは、事前に私に相談するようにと言いました。今スチュアートさんはロンドンに住んでいます。一ヶ月に一度は、ジャンボジェットに乗って剣術の練習に来るのです。カッコいい。
入門してから六ヶ月程経ち、ある金曜日の夕方のクラスの後、個人的に話したいことがあると申すので、他の生徒が帰った後に道場で話を聞いてあげました。彼は言いました。「私は見てのとうりの黒人です。そして、今まで他の生徒にも言いませんでしたが、私はオカマです」。個人的に私は、そのことについては別に変な風には思わないし、スチュアートさんが、日本刀と日本のサムライの歴史を大好きなのは不変的なものでしょうから、その事実に感謝感激致しています。これからも変わりなく、日本刀の鑑定士か歴史家になれる位に勉強してがんばって下さいと、励ましてあげました。日本刀を愛して尊敬する人に隔たりや国境はないのです。絶対にあってはいけないのです。スチュアートさんに種々な面で貴殿を守ってあげると約束しました。
1991年の3月に最愛の妻のクララさんが長男を生みました。長男は、生まれた時からいつも家に出入りしていたスチュアートさんと話したり、遊んでもらったりしています。7歳違いの次男も、同じく生まれた時からスチュアートさんにかわいがられています。家族と一緒に撮った写真がたくさんあります。また、家族とスチュアートさんだけでクリスマスを過ごしたこともあります。家で夕食を一緒に食べたこともたくさんあります。桑港日本刀協会の会員で、私の家に出入りする人は余りいません。5人ほどでしょうか。スチュアートさんはその内の一人です。
日本刀がを愛し尊敬する人は、ヘテロでもホモでも関係のないことなのです。スチュアートさんは、自分の立場を良く知っていて、Gentlemanであり良き生徒です。良い生徒に恵まれたら、好きな趣味を伸ばしてあげるのが本当の先生の仕事です。私は、日本に師匠や先生が数人いて生徒の立場です。米国では、自分は先生の立場なので、生徒と先生の両方の立場を誰よりも理解できるのです。
1980年代後半から1990年代前半にかけて、スチュアートさんとスティーブさんと三人でロスの近くの米国最大の「Pamona Gun Show」に毎年5月と10月に通っていました。私は、この米国最大のガンショウ会場でかなりの数の重要文化財や重要美術品の日本刀を発見しました。スチュアートさんもスティーブさんも、このガンショウの会場でかなりの数の掘り出し物の日本刀を見つけました。たまには、三人ではなく違う生徒と五人でこのガンショウに行ったことも数回あります。旅は道ずれで、ものすごく楽しい時を彼らと一緒に過ごさせていただきました。一生忘れません。この米国で最大級のガンショウは、ついに1999年に亡くなってしまいました。残念です。理由は、ガンショウが少数派の人間には理解ができないことに起因しています。彼らの拳銃やライフル、ショトガンに対する考えが幼稚で貧弱です。無知は哀れです。生まれ変わったほうが良いのです。
スチュアートさんは、2000年の春にUnited Airlineのフライトアテンダントになり、日本、イギリス、ドイツ、イタリア、フランス、中国などと米国の各州を飛び回っています。ジャンボジェットに乗って日本刀を習いに来る人はスチュアートさんだけです。シカゴに住んでいた2002年頃より、剣術と試し切りを習いにスチュアートさんは、飛行機に乗ってサンフランシスコに 来るようになりました。2004年の3月と4月には、スチュアートさんとRedwood Cityの中学校教師のブライアンさんと私の三人で、英国を本拠地とするドキュメンタリー制作会社の『ヒストリーチャンネル』に登場させていただきました。つぶやきのセクションに詳細が書かれています。読んで下さい。
2005年、06年、07年の三年連続で、スチュアートさんに4月に行われるサンフランシスコ日本町の桜祭りグランドパレードに参加していただきました。剣術と試し切りが他の人よりも長けています。長い足がとても機敏に動き、長い腕からは真剣での抜刀術と試し切りの動作が自由自在に流れるように醸し出されてます。
剣術を習い始めた頃、スチュアートさんと練習していてびっくりしたことが何度かありました。足運びで、すり足とか跳び足の術がすばやく、猫かウサギを見ているようなのです。二段階と三段階の切り込み技術も簡単にやってのけます。すごい運動神経が良い生徒がいるんだなと思いました。そして私の頭にあることがよぎりました。1936年に行われた夏のベルリンオリンピックで4個の金メダルを獲得したアフロアメリカンのジェッシー・オウエンズです。8月4日には100メートルのダッシュ、次の日は200メートルのダッシュ、幅跳びそして最後は4人のリレーでGold Medalです。「すごい」としか言いようが他にないのです。アーリア人種はどうしたの? 白人の上位説は? 黒服のSS髑髏旅団の親衛隊に護衛されてオリンピック会場にいたアドルフ・ヒトラー総統は、アフロアメリカンのジェッシー・オウエンズとの握手を拒んだのです。
スチュアートさんと剣術の練習を道場で二人だけですることがよくありました。私の技術の六割強をやってのけるのです。びっくりです。尋常な人間はせいぜい三割程度です。スチュアートさんは逆立ちもできます。他の生徒は誰もできません。太りすぎと、腕が貧弱すぎる体と私は思います。スチュアートさんの開脚は165度ぐらいです。私の開脚180度を見て、どうしてできるのかといつも聞きます。私は生まれつき体が柔らかく、母の清子さんは83歳の時に座って伸ばした自分の足のつま先に、手が届きました。遺伝からの体の柔らかさを実感してます。スチュアートさんは特別な腕たて伏せの三種類もできます。コレは、相当に訓練しないとできないことですが。一般人には絶対に無理です。人類の99%ができないでしょう。
スチュアートさんと練習の後よくJ&Aレストランに行きました。中華料理屋です。ママとパパがいて面白い夫婦です。名字は林。二人はとても働き者です。英語はあんまり上手ではありませんが良い人達です。このレストランには、毎月の勉強会の時に、他の生徒と共に一ヶ月に一度は通っています。スチュアートさんは、この二人の夫婦にUnited Airlineの航空券を安く手配したことが4回あります。二人は大喜びです。この林さん夫婦は、日本、中国本土、韓国、エジプト、ヨーロッパを旅行しました。この航空券を安く手配したことから、スチュアートさんが人間味のある人柄だと伺われます。
剣術を習う前、スチュアートさんは自信に欠けていて、いつも自殺を考えていたそうです。彼は言いました。「私は黒人でホモだから、他人から無視されたり差別をいつも受けている」と。今は、剣術と試し切り、空手術もできるので、自信が出てきたそうです。スチュアートさんからいろんな話を聞きました。自分がホモであることに気付いたのが5歳の頃と言っていました。中学生頃から自分を嫌いになったそうです。しかし、お母さんがいつも 彼を励ましていてくれたそうです。父親はどこにいるのかも知らないそうです。異父兄弟がいて、相当に悪い奴だと言っていました。私は彼を見ていて、前向きにいろんなことを考えて、元気に生きてる人です。
スチュアートさんはロスで生まれて、モデストで育ったそうです。一度、そこに日本刀の鑑定に行ったことがあります。ある日本刀のディーラーがいて、刃長が二尺六寸五分の埋忠明寿が造った珍しい平造りの豪刀があるというのです。そのディーラーの父親に、スチュアートさんは高校生の時に居合い道を習ったことがあると言うのです。早速、私のVWのThingのConvertibleに乗ってモデストに向かいました。サンフランシスコからヨセミテ国立公園に向かって行く距離の半分です。二時間くらいで到着しました。スチュアートさんの育ったモデストは静かな田園風景の町で、種々の樹木が立っています。日本刀のディーラーの家に到着し、合計五振りの日本刀を拝見しました。全部偽銘でした。鍔屋小道具が少しあって、その中の太刀鍔を私は買いました。平安時代の太刀の鍔用にしたかったからです。色が私が持っていた他の金具と一致していたからで、大きさも丁度良かったのです。この長旅で、太刀の鍔が買えたので悔いはありません。
一度スチュアートさんに大小の日本刀を見つけてあげました。大刀は豪刀です。時代は幕末。刃渡りは二尺六寸あります。無銘ですが、相州伝の優作刀です。小刀の方は無銘の脇差で、江戸の新刀鍛冶が200年前に製作したもので、大磨り上げです。大小共に、刃紋は直ぐ刃です。拵え金具の目抜き、縁と頭が鯰のデザインです。この大小の日本刀の価値は約200万円です。スチュアートさんの日本刀収集物件の中に価値あるものがたくさんあります。
彼は一度、E-Bayのオークションで小太刀を1570年代の末古刀と勘違いして買ったことがあります。値段は1800ドル払いました。私が鑑定をし、700年経った小太刀だと言うとびっくりしていました。できたらこの小太刀を誰かに売ってほしいと言うので、一週間後に他の桑港刀剣協会会員に3500ドルで売ってあげました。コミッションフィーを払いたいと言うので、断って貴殿のVisa Cardの支払いに廻せとアドバイスしました。スチュアートさんは大喜びです。でも今度E-Bayから日本刀を買うときは、事前に私に相談するようにと言いました。今スチュアートさんはロンドンに住んでいます。一ヶ月に一度は、ジャンボジェットに乗って剣術の練習に来るのです。カッコいい。