親父に射殺されそうになった私
1980年代は、日本から両親が頻繁に訪米を致しておりました。年に五、六回はサンフランシスコに参っていました。多い時は、年に十回も参上していました。親父は、暇と金がメチャクチャあったので、会社勤めだった私は、訪米のたびに腹が立っていました。人に迷惑をかけるようなことは、どうでも良いようなことを抜かすジジイでした。何時もクダらんことで口論です。ケンカ別れでしたが、三週間くらいすると、立ち直るように、また、サンフランシスコに参上です。
両親は、コロラドのデンバーにいる腹違いの兄貴とテキサスの実の弟の所にも参っていました。お袋の清子さんは、腹違いの兄貴の所で気まずい思いをしていたのでしょう。文句たらたらです。私は、たった一つのことを誰にでも言っています。『やりたくないことは、絶対にやらなくて良いのです。奴隷ではないのだから。自由を楽しんで下さい』と強く力説しています。
親父の行きたい所は大体決まっていました。サンフランシスコのチャイナタウン(中華街)とリカーバーンです。この店は今はもうありませんが、いろんな酒が買えるドでかい店なので、1980年代には何時も連れて行かされました。
もう一つ親父が参加したいことがあります。拳銃ツアーです。家にはあの頃、200丁の拳銃がありました。1970年代には、500丁以上ありました。現在は17丁ぐらいです。拳銃を収集するのは、日本では絶対にできません。億万長者のジジイにもできません。ざまあ見ろ!
1986年の春頃、いつものように拳銃ツアーです。実弾2000発と10丁くらいの拳銃を射撃場現場に持って行きました。親父用に特別に買った、357マグナムリボルバー(回転式銃)の他に、自分用の41マグナム銃、44マグナム銃、45コルトリボルバー、38リボルバー等をでかいケースに入れて出発です。屋外と限定されたので、コンコード市にある射撃場へ行きました。途中に、エルサリト市の悪友の中西さんの武道具屋へ参上して、貸していた357マグナムリボルバーを受け取ってから、しばらく運転して射撃場現場に到着です。朝の10時半頃でした。
射撃場では、的を設置する時間があって、それを待たねばなりません。ブザーが鳴ると、射撃を行っている全員がいったん停止して、実弾を抜き、拳銃と実弾を分けて前にある台の上に別々に置きます。そして、的まで20メートル位歩いて弾が当たっているか否かを見て喜こぶんです。新しく入場して来た人は、みんなが射撃をやめるまで待ってから、的を新規に設置して、再び台の後ろに歩いて戻り、控えているのを義務付けられています。ブザーが鳴ったら射撃開始です。ルールを守れば安全です。
親父はあの時点で65歳でした。オートマチックの拳銃は使わせませんでした。取り扱いを間違えると命取りです。銃身内に実弾が入っているか否かは、外から見ても解りません。九割以上のアホは、自動拳銃を使うとき、引き金を確認無しで先に引いてしまいます。言い訳は必ず『暴発した』です。完璧な逃げ口述です。暴発なんてことは絶対にありえないのです。とにかく、貧弱な筋肉の持ち主の親父には、私は自動拳銃を持たせたくなかったのです。
その日は現場に到着して、参加費を払い入場です。射撃場の一番左へ行き陣取りです。過去に何回かこの場所に来たことがありました。その日は、なぜか私は親父の右に立ち、射撃をすることに決めました。ブザーが鳴り、全員が射撃を停止し、的に着弾しているかを見に行く人たちと一緒にに歩いて的を設置しました。また、台のあるところへ歩いて戻り、台の後ろに控えてブザーが鳴るのを待ちました。ブザーが鳴り射撃開始です。10分ぐらいでまたブザーが鳴り、射撃停止です。
私は、右手で44マグナムリボルバーを持ち、左手で回転するシリンダーから実弾三発とすでに撃った空薬きょうの三発を抜き取りました。ふと親父の方を見ると、右手の位置がおかしいし、左手の位置もヤバカッタです。357マグナムリボルバーの実弾を抜こうとしていました。右手の人差し指で引き金を引いてしまい、弾が出て左方向に飛んで行きました。もし、私が親父の左側に立っていたら、実弾で撃たれて死んでいたでしょう。実に怖かったです。もう、その日は射撃を中止して帰宅しました。お袋は家で待っていました。「ちょっと早い帰宅ですね」なんて言っていました。
その夜は、お通夜みたいな酒盛りです。私も親父も無口です。お袋に「今日の昼頃、死に直面した」と言って、その後詳細を説明すると泣いてしまいました。いつもの癖です。直ぐに泣くのです。悪い癖です。親父は酔っ払って寝たので、清子さんに申しあげました。「もう、あのジジイ、どんなことがあっても射撃に連れて行かない」と心に決めました。
次の日の朝、あの恐ろしい事件の直ぐ後ですが「また射撃ツアーに行きたい」と抜かすアホです。私も「じゃあ、一応、吟味をしてやるから、射撃に行くか行かないかはその後決める」と言いました。「私の手首を思いっきり片手で握って、私が痛いと感じたら射撃に連れて行ってやる」と言いました。親父もマジに手首を握りましたが、全然痛くないし「そんなへっぴり腰では、だめだ!」と即座に言ってやりました。まだうるさいので「謹慎して、追って沙汰を待つように」と言いました。その後は、射撃のことを言うと完全に無視しました。1988年頃から、両親は訪米をしなくなりました。内心喜ぶ私でした。
あの忌まわしい日を、時々回想する私です。親父用に特別に買った357マグナムリボルバー(回転式拳銃)は、いまだに家にあります。この拳銃は二種類の弾が入るんです。相当に威力の強い357弾と、比較的弱い38弾です。弱い弾と言っても、近距離で撃たれたら即死です。
親父には357弾は撃たせなかったです。威力のある357弾は撃てなかったでしょう。反動が完全にに伝わって来ます。親父が、あの弾を撃っていたら、手から拳銃がどこかへ飛んでいったでしょう。多分、自分の体のどこかを撃ち抜いていたかもしれません。身体障害者が、拳銃を撃ったり自動車を運転するのは実に怖いことです。犠牲者が必ず出ます。「誰か、法律を変えてくれないかなあ」と希望する私です。
両親は、コロラドのデンバーにいる腹違いの兄貴とテキサスの実の弟の所にも参っていました。お袋の清子さんは、腹違いの兄貴の所で気まずい思いをしていたのでしょう。文句たらたらです。私は、たった一つのことを誰にでも言っています。『やりたくないことは、絶対にやらなくて良いのです。奴隷ではないのだから。自由を楽しんで下さい』と強く力説しています。
親父の行きたい所は大体決まっていました。サンフランシスコのチャイナタウン(中華街)とリカーバーンです。この店は今はもうありませんが、いろんな酒が買えるドでかい店なので、1980年代には何時も連れて行かされました。
もう一つ親父が参加したいことがあります。拳銃ツアーです。家にはあの頃、200丁の拳銃がありました。1970年代には、500丁以上ありました。現在は17丁ぐらいです。拳銃を収集するのは、日本では絶対にできません。億万長者のジジイにもできません。ざまあ見ろ!
1986年の春頃、いつものように拳銃ツアーです。実弾2000発と10丁くらいの拳銃を射撃場現場に持って行きました。親父用に特別に買った、357マグナムリボルバー(回転式銃)の他に、自分用の41マグナム銃、44マグナム銃、45コルトリボルバー、38リボルバー等をでかいケースに入れて出発です。屋外と限定されたので、コンコード市にある射撃場へ行きました。途中に、エルサリト市の悪友の中西さんの武道具屋へ参上して、貸していた357マグナムリボルバーを受け取ってから、しばらく運転して射撃場現場に到着です。朝の10時半頃でした。
射撃場では、的を設置する時間があって、それを待たねばなりません。ブザーが鳴ると、射撃を行っている全員がいったん停止して、実弾を抜き、拳銃と実弾を分けて前にある台の上に別々に置きます。そして、的まで20メートル位歩いて弾が当たっているか否かを見て喜こぶんです。新しく入場して来た人は、みんなが射撃をやめるまで待ってから、的を新規に設置して、再び台の後ろに歩いて戻り、控えているのを義務付けられています。ブザーが鳴ったら射撃開始です。ルールを守れば安全です。
親父はあの時点で65歳でした。オートマチックの拳銃は使わせませんでした。取り扱いを間違えると命取りです。銃身内に実弾が入っているか否かは、外から見ても解りません。九割以上のアホは、自動拳銃を使うとき、引き金を確認無しで先に引いてしまいます。言い訳は必ず『暴発した』です。完璧な逃げ口述です。暴発なんてことは絶対にありえないのです。とにかく、貧弱な筋肉の持ち主の親父には、私は自動拳銃を持たせたくなかったのです。
その日は現場に到着して、参加費を払い入場です。射撃場の一番左へ行き陣取りです。過去に何回かこの場所に来たことがありました。その日は、なぜか私は親父の右に立ち、射撃をすることに決めました。ブザーが鳴り、全員が射撃を停止し、的に着弾しているかを見に行く人たちと一緒にに歩いて的を設置しました。また、台のあるところへ歩いて戻り、台の後ろに控えてブザーが鳴るのを待ちました。ブザーが鳴り射撃開始です。10分ぐらいでまたブザーが鳴り、射撃停止です。
私は、右手で44マグナムリボルバーを持ち、左手で回転するシリンダーから実弾三発とすでに撃った空薬きょうの三発を抜き取りました。ふと親父の方を見ると、右手の位置がおかしいし、左手の位置もヤバカッタです。357マグナムリボルバーの実弾を抜こうとしていました。右手の人差し指で引き金を引いてしまい、弾が出て左方向に飛んで行きました。もし、私が親父の左側に立っていたら、実弾で撃たれて死んでいたでしょう。実に怖かったです。もう、その日は射撃を中止して帰宅しました。お袋は家で待っていました。「ちょっと早い帰宅ですね」なんて言っていました。
その夜は、お通夜みたいな酒盛りです。私も親父も無口です。お袋に「今日の昼頃、死に直面した」と言って、その後詳細を説明すると泣いてしまいました。いつもの癖です。直ぐに泣くのです。悪い癖です。親父は酔っ払って寝たので、清子さんに申しあげました。「もう、あのジジイ、どんなことがあっても射撃に連れて行かない」と心に決めました。
次の日の朝、あの恐ろしい事件の直ぐ後ですが「また射撃ツアーに行きたい」と抜かすアホです。私も「じゃあ、一応、吟味をしてやるから、射撃に行くか行かないかはその後決める」と言いました。「私の手首を思いっきり片手で握って、私が痛いと感じたら射撃に連れて行ってやる」と言いました。親父もマジに手首を握りましたが、全然痛くないし「そんなへっぴり腰では、だめだ!」と即座に言ってやりました。まだうるさいので「謹慎して、追って沙汰を待つように」と言いました。その後は、射撃のことを言うと完全に無視しました。1988年頃から、両親は訪米をしなくなりました。内心喜ぶ私でした。
あの忌まわしい日を、時々回想する私です。親父用に特別に買った357マグナムリボルバー(回転式拳銃)は、いまだに家にあります。この拳銃は二種類の弾が入るんです。相当に威力の強い357弾と、比較的弱い38弾です。弱い弾と言っても、近距離で撃たれたら即死です。
親父には357弾は撃たせなかったです。威力のある357弾は撃てなかったでしょう。反動が完全にに伝わって来ます。親父が、あの弾を撃っていたら、手から拳銃がどこかへ飛んでいったでしょう。多分、自分の体のどこかを撃ち抜いていたかもしれません。身体障害者が、拳銃を撃ったり自動車を運転するのは実に怖いことです。犠牲者が必ず出ます。「誰か、法律を変えてくれないかなあ」と希望する私です。