英語の勉強と白人女性達
この課題は、一生、死ぬまでがんばり続けなくてはなりません。まして、正規のテストを受けて、アメリカ人になった人々はなおさらです。英語のできないアメリカ人なんて、モドキかインチキです。調子に乗っているだけです。本当は、英語でなくて米語です。私はみんなに合わせているだけです。英国に1990年代に日本武道武術の指導と伝授に行っていましたが、彼等のQueen’s Englishに慣れるまでに通訳が必要でした。英国人達も、私の日本語アクセントで話す米語がおもしろいと言っていました。
私達おっさん等は、英語を習う脳の分野を、特別に用意して作らなければいけなかったのです。本当の意味でのバイリンガルの人は、同じ脳の分野で、英語と日本語を一緒に学ぶのです。ある面で単語の数の習得が制限されるそうです。二人乗りのスポーツカーに、無理に三人乗せようとするのと同じです。一つの言語しかできない人は、その言語に徹底するので博学者や大学教授になれるのです。ノーベル文学賞をもらった人々に、バイリンガルの方々があんまり存在しません。あまり深く考えると、日本人の得意なストレスが出たり溜まってしまいます。
日本人の多くは、ストレスという言葉を履き違えて使っています。ストレスという言葉は戦後作られて、1957年ごろから日本で使われ始めました。完璧にこの言葉を翻訳できないのです。だから、和製英語です。該当する漢字がありますか?強いて訳すると『心理的社会的負荷』と長くなります。負担と負荷が多くなると、人間は病気になります。現代人の病気のようですが、仕事で上司がちんぷんかんぷんで、部下を攻めたてたり過度の仕事を押し付けたりするなど、昔から侍の世界にも在ったようです。
日本にもいくつかの単語が、英語に訳せない言葉として存在します。「義理」「遠慮」がそうです。
私も、下手な英語で大学、高等学校、中学校、小学校で日本刀、文化、歴史等の講義をしましたが、講義を受けている生徒さん達に、少しでも講義に関連した日本語の単語を学んでいただきました。ある程度の歩み寄りが必要です。何も知らないど素人に、日本刀、日本史の講義をしても分かるはずがありません。これは、どんな分野にでも共通します。
私は、英語で解らない単語を聞いたり、発見したら、必ず辞書を引いたり、生き字引でNative speakerの最愛の奥さんに聞いたりして、その言葉を納得が行くまで徹底的に追求、探索いたします。死んだ博学者の父が同じことをしていました。でも、あのお方はちょっと行き過ぎ感もありました。周りの人を焦らせたり、困らせたり、泣かせたり、猛烈でした。
1971年夏に渡米して、その一ヶ月後に成人学校へ通うことになりました。Daly CityのJefferson High Schoolの夜学でした。中南米の人々がたくさん来ていました。白人の女性が先生でした。39歳だったけど、25歳位に見えました。名前はジュディさんです。ドイツ人でした。私がドイツ語を話すと、びっくりしていました。1975年前までは、私はドイツ語の方が英語よりもできました。
次に通った成人学校はJohn Adamsで、この学校はGolden Gate Parkの近くにありました。Masonic StreetとHayes Streetの交わるところです。この学校では、英語の他に数学、物理学、歴史等も勉強できました。高校を卒業できなかった、おちこぼれの人々もたくさん通っていました。中近東から来たアラブ人がいつも喧嘩していました。ヨーロッパ人はあんまりいませんでした。
1971年の秋、ジェファーソン成人学校へ通っていた頃、住んでいたアパートに白人のオバサンがいました。歳は45歳くらいです。名前はローラさんです。アパート内にコンクリートの場所があり、大きさはテニスコートぐらいはありました。そこでしばらく武術武道の練習をしていると、ローラさんがロサンゼルスから来たジミーという27歳の息子を私に紹介してくれ、友達になりました。初めて親しくなった白人友達二人です。週に二回、私の英語を見てくれました。やっぱり“th”の発音ができないので、特訓です。二ヶ月目に、やっとできるようになりました。数を重ねて、みっちりやればできるのです。もう二つ難関がありました。“V”と“B”の違いと“L”と“R”の違いです。はじめの頃、私はEvery thingをEvery singと言っていました。“th”の発音は、上と下の歯で、舌の先を軽く噛んで「つ」といえば良いのです。“V”の発音は、上の歯で下唇を噛んで「ヴァ」と言えば良いのです。今考えると爆笑です。でも私は一生懸命でした。
“L”と“R”の発音は、中南米のクラスメートの姉ちゃん達を捕まえて勉学に励んでいました。かなりきわどい、おもろい姉ちゃんがいました。名前のRoberto Lopezがうまく言えず、だめだしされました。中南米人達によると、日本人の“L”と“R”の発音は中途半端で、分からないと申すのです。でも強いて言えば“R”音の方に近いと言っていました。結局、舌の位置や力加減、廻し具合で発音できるということになりました。ありがとうございます。お姉ちゃん達は、口を揃えて力説してくれました。もっとキッスをジャンジャンしろと言うのです。「私と試しキッスしてみる?」とお誘いがありましたが、「ありがとうございます、次回にお願いします」と鄭重にお断りしました。まさか「私は白人女性にしか興味がないんです。燃えないんです」とは決して、言えませんでした。
1971年の11月、親父の昔の東京帝国大学に通う頃の友達がオークランドに住んでいるというので訪問しました。グレイハウンドのバスに乗ってオークランドへ行きました。バスの中でドイツ人女性と知り合いました。名前はハンナメンドラーです。マサチューセッツ州から来たそうです。離婚していましたが、娘が二人いました。英語をよく見てくれました。3ヶ月親しくお付き合いしました。歳は34歳です。でも若く見えました。28歳位です。私の好きな金髪です。でも、少し白っぽい金髪です。いろんな色の金髪の女性がいるのだなと関心してしまいました。白人の女性の顔をじっくり見ていると、あることに私は気がつきました。鼻の先っぽと、下あごに、仮に直線を引いたとします。その線に唇が当たらないのです。その事実を吟味して、鼻の高い白人女性が、もっともっと好きになりました。
英語の勉強は、渡米以来いろいろな形で続けています。あまり過度に男女の差のない英語は、女性から習ったほうが良いと思います。私には、日夜いつでも相手になってくれる英会話の先生がいます。そうです。そうです。愛しの最愛の妻のクララさんです。私は、世界一幸せな英会話の生徒です。朝起きると必ず、高い鼻を覗いています。なぜか、高い鼻を見ていると、落ち着き、安らぎを感じます。最高!
私達おっさん等は、英語を習う脳の分野を、特別に用意して作らなければいけなかったのです。本当の意味でのバイリンガルの人は、同じ脳の分野で、英語と日本語を一緒に学ぶのです。ある面で単語の数の習得が制限されるそうです。二人乗りのスポーツカーに、無理に三人乗せようとするのと同じです。一つの言語しかできない人は、その言語に徹底するので博学者や大学教授になれるのです。ノーベル文学賞をもらった人々に、バイリンガルの方々があんまり存在しません。あまり深く考えると、日本人の得意なストレスが出たり溜まってしまいます。
日本人の多くは、ストレスという言葉を履き違えて使っています。ストレスという言葉は戦後作られて、1957年ごろから日本で使われ始めました。完璧にこの言葉を翻訳できないのです。だから、和製英語です。該当する漢字がありますか?強いて訳すると『心理的社会的負荷』と長くなります。負担と負荷が多くなると、人間は病気になります。現代人の病気のようですが、仕事で上司がちんぷんかんぷんで、部下を攻めたてたり過度の仕事を押し付けたりするなど、昔から侍の世界にも在ったようです。
日本にもいくつかの単語が、英語に訳せない言葉として存在します。「義理」「遠慮」がそうです。
私も、下手な英語で大学、高等学校、中学校、小学校で日本刀、文化、歴史等の講義をしましたが、講義を受けている生徒さん達に、少しでも講義に関連した日本語の単語を学んでいただきました。ある程度の歩み寄りが必要です。何も知らないど素人に、日本刀、日本史の講義をしても分かるはずがありません。これは、どんな分野にでも共通します。
私は、英語で解らない単語を聞いたり、発見したら、必ず辞書を引いたり、生き字引でNative speakerの最愛の奥さんに聞いたりして、その言葉を納得が行くまで徹底的に追求、探索いたします。死んだ博学者の父が同じことをしていました。でも、あのお方はちょっと行き過ぎ感もありました。周りの人を焦らせたり、困らせたり、泣かせたり、猛烈でした。
1971年夏に渡米して、その一ヶ月後に成人学校へ通うことになりました。Daly CityのJefferson High Schoolの夜学でした。中南米の人々がたくさん来ていました。白人の女性が先生でした。39歳だったけど、25歳位に見えました。名前はジュディさんです。ドイツ人でした。私がドイツ語を話すと、びっくりしていました。1975年前までは、私はドイツ語の方が英語よりもできました。
次に通った成人学校はJohn Adamsで、この学校はGolden Gate Parkの近くにありました。Masonic StreetとHayes Streetの交わるところです。この学校では、英語の他に数学、物理学、歴史等も勉強できました。高校を卒業できなかった、おちこぼれの人々もたくさん通っていました。中近東から来たアラブ人がいつも喧嘩していました。ヨーロッパ人はあんまりいませんでした。
1971年の秋、ジェファーソン成人学校へ通っていた頃、住んでいたアパートに白人のオバサンがいました。歳は45歳くらいです。名前はローラさんです。アパート内にコンクリートの場所があり、大きさはテニスコートぐらいはありました。そこでしばらく武術武道の練習をしていると、ローラさんがロサンゼルスから来たジミーという27歳の息子を私に紹介してくれ、友達になりました。初めて親しくなった白人友達二人です。週に二回、私の英語を見てくれました。やっぱり“th”の発音ができないので、特訓です。二ヶ月目に、やっとできるようになりました。数を重ねて、みっちりやればできるのです。もう二つ難関がありました。“V”と“B”の違いと“L”と“R”の違いです。はじめの頃、私はEvery thingをEvery singと言っていました。“th”の発音は、上と下の歯で、舌の先を軽く噛んで「つ」といえば良いのです。“V”の発音は、上の歯で下唇を噛んで「ヴァ」と言えば良いのです。今考えると爆笑です。でも私は一生懸命でした。
“L”と“R”の発音は、中南米のクラスメートの姉ちゃん達を捕まえて勉学に励んでいました。かなりきわどい、おもろい姉ちゃんがいました。名前のRoberto Lopezがうまく言えず、だめだしされました。中南米人達によると、日本人の“L”と“R”の発音は中途半端で、分からないと申すのです。でも強いて言えば“R”音の方に近いと言っていました。結局、舌の位置や力加減、廻し具合で発音できるということになりました。ありがとうございます。お姉ちゃん達は、口を揃えて力説してくれました。もっとキッスをジャンジャンしろと言うのです。「私と試しキッスしてみる?」とお誘いがありましたが、「ありがとうございます、次回にお願いします」と鄭重にお断りしました。まさか「私は白人女性にしか興味がないんです。燃えないんです」とは決して、言えませんでした。
1971年の11月、親父の昔の東京帝国大学に通う頃の友達がオークランドに住んでいるというので訪問しました。グレイハウンドのバスに乗ってオークランドへ行きました。バスの中でドイツ人女性と知り合いました。名前はハンナメンドラーです。マサチューセッツ州から来たそうです。離婚していましたが、娘が二人いました。英語をよく見てくれました。3ヶ月親しくお付き合いしました。歳は34歳です。でも若く見えました。28歳位です。私の好きな金髪です。でも、少し白っぽい金髪です。いろんな色の金髪の女性がいるのだなと関心してしまいました。白人の女性の顔をじっくり見ていると、あることに私は気がつきました。鼻の先っぽと、下あごに、仮に直線を引いたとします。その線に唇が当たらないのです。その事実を吟味して、鼻の高い白人女性が、もっともっと好きになりました。
英語の勉強は、渡米以来いろいろな形で続けています。あまり過度に男女の差のない英語は、女性から習ったほうが良いと思います。私には、日夜いつでも相手になってくれる英会話の先生がいます。そうです。そうです。愛しの最愛の妻のクララさんです。私は、世界一幸せな英会話の生徒です。朝起きると必ず、高い鼻を覗いています。なぜか、高い鼻を見ていると、落ち着き、安らぎを感じます。最高!