腹違いの兄貴
腹違いの兄貴のことは公の秘密になっています。週刊ベイスポの2011年1月28日付けの新聞に掲載された「ベイエアリアに暮らす」日本人の文化芸術編Volume24に記載されています。私が、元同会社員の森川さんからインタービューを受けた時に書いていただきました。
兄貴のカンちゃんと会ったのは、私が神田の神保町に住んでいた頃で5歳の時です。その頃は、あいつがどこの馬の骨だか知らない私です。近くの公園で遊んでたのを覚えています。ジャングルジムの上の方に、私があいつを追い込んで首を絞めていたのを覚えています。あいつは、メシを食う時に、いつも茶碗の中のメシを、箸を無造作に使って口の中にがつがつかき込んでいたのも覚えています。お袋の清子さんが申すには、私はいつもカンちゃんに「死ね、死ね、死ね」と三回言い続けていたそうです。きっと私は、子供心にあいつにむかついていたのでしょう。「あのチンケな奴は誰だ」と私がいつも聞くので、お袋はパパの友達の息子をちょっと預かっているのだと、下手な嘘をこいていました。
16歳の時に、両親が話したいことがあると言うので私は相談に乗ってやったのです。なんかいやな気分です。きまずい気分です。「あんたに腹違いの兄さんがいて」と切り出すお袋です。そのうち会って、ちょっと話してくれと申す親父です。そして、三つ年上の姉さんもいると言うのです。このことを告白されて、きっと私がぐれると両親は考えたのでしょう。私は全然気にしないし、親父をほめてやったのです。ちゃんと二人を見捨てないで育てたのだから、偉い親父を持って私は実に喜ばしいと言ってやりました。そのことを聞いた後、お袋は泣いてしまいました。いつも取り乱して泣くのがお袋です。馬鹿な癖です。
物心ついて初めて兄貴と会ったのは東京の新宿あたりでしょうか。喫茶店です。私が17歳の頃だと記憶しています。兄貴は背が高く175センチもありました。体格は、兄さんと呼ぶのに申し分ありません。家に帰った私に、両親が「兄さんの印象はどうだった」と言うので「別に」と言いました。付け加えて言ってやりました。「おれが神田に住んでいたの頃に、メシをがつがつ食っていた奴だな」と言いました。その後しばらくして、腹違いの兄はロサンゼルスに留学したと親父が言いました。
私が19歳で渡米した時に、兄貴のカンちゃんはロスの空港に迎えに来てくれました。多分親父の命令でしょう。私はその時、羽田空港を出てハワイ経由でロス入りでした。飛行機が夜の9時頃到着で、兄貴が向かえに来てくれたのは夜中近くの11時過ぎ頃でした。きったないVW66年型のかぶと虫の車に乗っていました。ぼろくそワーゲンです。結構走りました。色はプライマーだけを塗った赤茶です。そのVW で、次の日にロスからサンフランシスコの兄貴の友達の家に連れて行ってもらいました。友達の石川さんに私を預けると、兄貴はさっさとロスへ帰ってしまいました。
その後の兄貴のことは、親父から少しばかり聞いていました。コロラド州デンバーへ移り住み、日本食のレストラン経営をしているそうです。タイ人かタイワン(台湾)の女性と結婚して、娘三人が授かったと親父は言っていました。言語障害的な親父が、タイ某と言ったので、タイ人かタイワン人かどちらかは、はっきり解かりません。そんなことは私に関してはどうでも良いのです。親父は、兄貴に娘三人ができてがっかりしたと言っていました。苗字の継続ができないと、なんとも古いことをおっしゃる奇人変人です。
親父が78歳で平成11年3月に他界しました。妹のチアキさんが弁護士を雇って、腹違いの兄貴と腹違いの姉貴との絶縁手続きをとりました。兄貴には、親父から借りた多額の借金がありました。私はそのはっきりした額を知っています。姉貴にも借金があったのでしょう。そっちの額は知りません。絶縁手続きの結果、親父の莫大な遺産全てが母の清子さんにだけ移されました。兄貴と姉貴の借金は不問にして、返却しなくても良いことになりました。
お袋の清子さんが、親父の法律上での奥さんとなったのは1980年です。兄貴と姉貴の母は京子さんといって、親父が京都帝国大学に通っている頃に付き合っていたそうです。私は、二度だけ京子おばさんに会っています。親父の愛した人なので尊敬しています。お袋の清子さんは、親父が京都から東京に移り住んで東京帝国大学に通っている頃に知り合ったそうです。二人の愛人は、1960年の始め頃に父に嘆願したそうです。もう私たちの子供も大きくなりましたので、籍を入れて下さいと言ったそうです。親父の返事は、中国本土にいいなずけを残して来たので、結婚だけは勘弁してくれと頼んだそうです。私は、親父がすげえ役者だなと思いました。お袋にも私のブッチャケタ程の、役者さんに対する御意見を聞かせてやりました。1970年の終りごろ、京子おばさんの父親が死んだそうで、数億円の遺産金が転がり込んだそうです。その後すぐ、親父は京子おばさんにゴミのように捨てられたそうです。私は、それを聞いて爆笑してしまいました。それ見たことかと言ってしまいました。優しい社交的なお袋は、哀れでかわいそうな親父と一緒に死ぬまで付き合ってやったのです。いつも一緒にたばこ吸ったり、メチャクチャと言うほどに種々の酒を飲んでいました。本当は、百歳くらいまで生きてほしかった二人の夫婦です。
お袋の清子さんも、ついに2010年の4月に他界してしまいした。誕生日の3日前のことでした。南無妙法蓮華経。
兄貴のカンちゃんと会ったのは、私が神田の神保町に住んでいた頃で5歳の時です。その頃は、あいつがどこの馬の骨だか知らない私です。近くの公園で遊んでたのを覚えています。ジャングルジムの上の方に、私があいつを追い込んで首を絞めていたのを覚えています。あいつは、メシを食う時に、いつも茶碗の中のメシを、箸を無造作に使って口の中にがつがつかき込んでいたのも覚えています。お袋の清子さんが申すには、私はいつもカンちゃんに「死ね、死ね、死ね」と三回言い続けていたそうです。きっと私は、子供心にあいつにむかついていたのでしょう。「あのチンケな奴は誰だ」と私がいつも聞くので、お袋はパパの友達の息子をちょっと預かっているのだと、下手な嘘をこいていました。
16歳の時に、両親が話したいことがあると言うので私は相談に乗ってやったのです。なんかいやな気分です。きまずい気分です。「あんたに腹違いの兄さんがいて」と切り出すお袋です。そのうち会って、ちょっと話してくれと申す親父です。そして、三つ年上の姉さんもいると言うのです。このことを告白されて、きっと私がぐれると両親は考えたのでしょう。私は全然気にしないし、親父をほめてやったのです。ちゃんと二人を見捨てないで育てたのだから、偉い親父を持って私は実に喜ばしいと言ってやりました。そのことを聞いた後、お袋は泣いてしまいました。いつも取り乱して泣くのがお袋です。馬鹿な癖です。
物心ついて初めて兄貴と会ったのは東京の新宿あたりでしょうか。喫茶店です。私が17歳の頃だと記憶しています。兄貴は背が高く175センチもありました。体格は、兄さんと呼ぶのに申し分ありません。家に帰った私に、両親が「兄さんの印象はどうだった」と言うので「別に」と言いました。付け加えて言ってやりました。「おれが神田に住んでいたの頃に、メシをがつがつ食っていた奴だな」と言いました。その後しばらくして、腹違いの兄はロサンゼルスに留学したと親父が言いました。
私が19歳で渡米した時に、兄貴のカンちゃんはロスの空港に迎えに来てくれました。多分親父の命令でしょう。私はその時、羽田空港を出てハワイ経由でロス入りでした。飛行機が夜の9時頃到着で、兄貴が向かえに来てくれたのは夜中近くの11時過ぎ頃でした。きったないVW66年型のかぶと虫の車に乗っていました。ぼろくそワーゲンです。結構走りました。色はプライマーだけを塗った赤茶です。そのVW で、次の日にロスからサンフランシスコの兄貴の友達の家に連れて行ってもらいました。友達の石川さんに私を預けると、兄貴はさっさとロスへ帰ってしまいました。
その後の兄貴のことは、親父から少しばかり聞いていました。コロラド州デンバーへ移り住み、日本食のレストラン経営をしているそうです。タイ人かタイワン(台湾)の女性と結婚して、娘三人が授かったと親父は言っていました。言語障害的な親父が、タイ某と言ったので、タイ人かタイワン人かどちらかは、はっきり解かりません。そんなことは私に関してはどうでも良いのです。親父は、兄貴に娘三人ができてがっかりしたと言っていました。苗字の継続ができないと、なんとも古いことをおっしゃる奇人変人です。
親父が78歳で平成11年3月に他界しました。妹のチアキさんが弁護士を雇って、腹違いの兄貴と腹違いの姉貴との絶縁手続きをとりました。兄貴には、親父から借りた多額の借金がありました。私はそのはっきりした額を知っています。姉貴にも借金があったのでしょう。そっちの額は知りません。絶縁手続きの結果、親父の莫大な遺産全てが母の清子さんにだけ移されました。兄貴と姉貴の借金は不問にして、返却しなくても良いことになりました。
お袋の清子さんが、親父の法律上での奥さんとなったのは1980年です。兄貴と姉貴の母は京子さんといって、親父が京都帝国大学に通っている頃に付き合っていたそうです。私は、二度だけ京子おばさんに会っています。親父の愛した人なので尊敬しています。お袋の清子さんは、親父が京都から東京に移り住んで東京帝国大学に通っている頃に知り合ったそうです。二人の愛人は、1960年の始め頃に父に嘆願したそうです。もう私たちの子供も大きくなりましたので、籍を入れて下さいと言ったそうです。親父の返事は、中国本土にいいなずけを残して来たので、結婚だけは勘弁してくれと頼んだそうです。私は、親父がすげえ役者だなと思いました。お袋にも私のブッチャケタ程の、役者さんに対する御意見を聞かせてやりました。1970年の終りごろ、京子おばさんの父親が死んだそうで、数億円の遺産金が転がり込んだそうです。その後すぐ、親父は京子おばさんにゴミのように捨てられたそうです。私は、それを聞いて爆笑してしまいました。それ見たことかと言ってしまいました。優しい社交的なお袋は、哀れでかわいそうな親父と一緒に死ぬまで付き合ってやったのです。いつも一緒にたばこ吸ったり、メチャクチャと言うほどに種々の酒を飲んでいました。本当は、百歳くらいまで生きてほしかった二人の夫婦です。
お袋の清子さんも、ついに2010年の4月に他界してしまいした。誕生日の3日前のことでした。南無妙法蓮華経。