空手の道場 その二
空手の道場では、実に楽しい人生経験をさせていただきました。生徒や五代先生と楽しい車での九州旅行にも出かけました。
鹿児島市で空手の試合が催され、私が「半月の型」の演舞を行うことになり、宗家先生から直々に頼まれました。他の生徒達は、勝ち抜きの空手の組み手の試合に参加です。18歳の時の夏でした。私の自動車ホンダS800は二人乗りのスポーツカーなので、小さ過ぎ、高校のクラスメート根元君の普通車に四人乗り込み、九州旅行を楽しみました。
旅行の予定は、横浜の港よりフェリーで別府まで車を運び、他の六台の車とキャラバンを組んで、そこからドライブで鹿児島入りです。師範代の陳さんに、ふざけて「陳さん、あした出港よ」と言うと、みんなが大笑いしていました。家に帰って、そのことを親父に言うと「俺も真似してみたい」と言うので、聞き入ると、間違って「陳さん、あした出帆よ」と抜かすのです。「それ現代じゃなくて、江戸時代の言葉じゃねえんじゃねえか」と言うと、お袋が爆笑して、小便を少しチビッてしまいました。あんまり笑ったことのない親父が苦笑いです。出航(出帆)の日が来ました。はじめの二、三時間の船旅で、みんな船酔いでだめでした。五代先生だけが平気でした。
別府に到着し、いろんな地獄を見学しました。どでかいワニがいました。硫黄の臭いが辺りに充満していた温泉の町です。天草を廻って、綺麗な高速道路を走り、鹿児島へ少しずつ近ずいて行きます。静かな浜辺でキャンプをして、みんなで夕食を作って食べた日もありました。生徒等の絆が深くなっていきました。実に良いことです。夜の肝試しもやりました。お化けなんかはいないのに、アホ達がいつも怖がり騒いでいました。車で走っている時、夏なのにヒーターをいれて、どこまで我慢できるかを試したり大はしゃぎです。今考えると実にアホです。
三日目にみすぼらしい旅館に泊まりました。ある歳食った生徒が、私たちの宿泊していた三階の部屋からオンナ風呂が見えると申すのです。女風呂をずっと覗いていた生徒が三人位いました。反対のビルディングの階段に他の宿泊客がいて、そこから覗いているのを見られていました。そっちのほうがおもしろかったです。のぞくのをのぞかれた馬鹿どもがいたので、実におかしかったです。五代先生が次の日の朝に「誰だ。昨夜、女風呂を覗いていたのは?」と聞くので、十人ぐらいの生徒が「おっさんの福田さんです」と一差し指で指して、一斉に声を合わせて名指しです。五代先生も私に「本当か」と聞くので答えました。「確かに女風呂か男風呂か、どっちつかずの風呂があって見えましたが誰もいませんでした」と弁解してあげました。おっさんの福田さんは、五代先生に叱られずにすみました。でも、先輩の陳さんには本当のことを言っておきました。確かに三人の女性が入っていました。でも、相当の婆さんだったのです。乳首がドス黒かったです。形がスルメみたいでした。婆さんの顔が梅干でした。目が良く見えないおっさんの福田さんは、婆さんを見て姉ちゃんかと思ってかなり興奮していました。真実を知らない方が幸せなのです。そういう時が人生には結構あるのです。
鹿児島に到着し、宗家先生の家の道場に宿泊することになりました。夕食の後、ギターを弾いて歌っていました。宗家先生の美しい娘さんが出て来て、歌に参加し盛り上がりました。結構遅い時間になり、宴会が終了しました。大会の当日は祝辞があり、私が「半月の型」の演舞を行いました。宗家先生のお褒めの言葉がありとても嬉しかったです。他の生徒は、自由組み手で結構活躍しましたが、三位まで勝ち残れた人はいませんでした。一人の生徒が抜きん出ていました。「螺旋手刀当て」を組み手の最中にジャンジャン使いました。もう一人は、相手が踏み込んだと同時に、右足の踵で蹴り上げを顎にかませました。私たちの空手は完全防具付きなので、寸止めや五分止めがありません。横浜道場から来た私たちは、負け戦の感がありました。でも、九州旅行は良い思い出になりました。
九州旅行より帰った次の日から、いつもの練習が道場ではじまりました。夜の師範代より昼間の師範代にまわされて、がんばり始めた私です。もうヤーさんみたいなガラの悪い生徒はいません。
昼間の生徒は中学生と高校生が多かったです。アメリカンスクールに通う生徒がいました。中国人の生徒が何人かいました。英語と中国語と日本語ができる秀才が三人くらいいて、道場に来ていました。私もその内の一人から英語を習っていました。14歳でしたが、私の英語の先生です。もう一人は、ハーフの少年がいました。テディー君です。15歳でした。彼にも英語の先生になってもらいました。正面蹴りが実に上手にできました。彼が英国に留学している時は、英文で文通していました。テディー君のお母さんはすごい美人でした。鼻が高くて、純日本人でしたが、欧米人のような顔つきです。テディー君のお父さんはイギリス人で、結構日本語ができました。テディー君に兄さんがいましたが、格好良すぎる美男子でいつも女性にもてていました。弟のウィンストン君は色が白くて、お人形さんの様でした。家族五人は山手のほうに住んでいて、お父さんはロケットの部品を作る会社の社長さんでした。
昼間の師範代になって練習していると、一人の綺麗な中国人の女の子が私たちの練習をのぞきに来ていました。ある日、その子が私と付き合いたいと、友達を通じて間接的に言ってきました。ちょっと悪かったのですが「もうすぐアメリカに留学するので、付き合いはできないです」とお断りしました。私には金髪のガールフレンドがいると言えませんでした。でも、石川町の駅をマリーさんと一緒に手を繋いで歩いていると、その子に見られてしまい気まずい思いをしました。ちょっと悪かったかなと思いました。
渡米の少し前、二週間ぐらい五代先生と道場の周りをマラソンしていました。3キロは走っていました。外人墓地やテディー君の住んでいる家の近くをぬけて、セイントジョセフのアメリカンスクールの近くを通って、石川町の南口に出て、チャイナタウンに戻るのです。いつも裸足で走っていました。先生の小さな4畳半の部屋にも行って将来を語りました。他の生徒もいつも来て、その狭い部屋に6人はいつも座っていました。「もしここで暴れたら、絶対に死人か怪我人が出るだろう」なんて脅かす先輩もいました。そんなことを言った時、あることが私の頭をヨギリました。その年の前年、千葉の海岸近くで10人位の生徒と五代先生と合宿をしました。練習場所は、夏だったので小学校の体育館で行いました。休憩時間があって、先輩四人が、五代先生に急に飛び掛りました。4回の鈍い音が聞こえて、先輩達が一瞬で倒れたのです。頭を抱えてうなっている人、首を押さえて泣いている人、失神している人、そして目が真っ赤にはれている四人がそこにいたのです。実にびっくりしました。先輩達も結構強かったんです。しかし、上には上が必ず存在します。
私も先生と自由組み手を道場でしていて、メチャクチャに蹴りを入れられました。一回目は、横蹴りで5メートルぐらい飛ばされました。鏡に体がドーンと当たって、死ぬかと思いました。二回目は二段蹴りが来て、次の瞬間に足の裏の皺が見えました。その後は覚えていません。気が付いた時は、道場の裏にあったベッドに寝ていました。脳震とうを起こしていました。怖かったです。でも、次の日にまた道場に練習に出かけました。
いろいろなことが道場で起こりました。実に楽しい人生経験をさせていただきました。
鹿児島市で空手の試合が催され、私が「半月の型」の演舞を行うことになり、宗家先生から直々に頼まれました。他の生徒達は、勝ち抜きの空手の組み手の試合に参加です。18歳の時の夏でした。私の自動車ホンダS800は二人乗りのスポーツカーなので、小さ過ぎ、高校のクラスメート根元君の普通車に四人乗り込み、九州旅行を楽しみました。
旅行の予定は、横浜の港よりフェリーで別府まで車を運び、他の六台の車とキャラバンを組んで、そこからドライブで鹿児島入りです。師範代の陳さんに、ふざけて「陳さん、あした出港よ」と言うと、みんなが大笑いしていました。家に帰って、そのことを親父に言うと「俺も真似してみたい」と言うので、聞き入ると、間違って「陳さん、あした出帆よ」と抜かすのです。「それ現代じゃなくて、江戸時代の言葉じゃねえんじゃねえか」と言うと、お袋が爆笑して、小便を少しチビッてしまいました。あんまり笑ったことのない親父が苦笑いです。出航(出帆)の日が来ました。はじめの二、三時間の船旅で、みんな船酔いでだめでした。五代先生だけが平気でした。
別府に到着し、いろんな地獄を見学しました。どでかいワニがいました。硫黄の臭いが辺りに充満していた温泉の町です。天草を廻って、綺麗な高速道路を走り、鹿児島へ少しずつ近ずいて行きます。静かな浜辺でキャンプをして、みんなで夕食を作って食べた日もありました。生徒等の絆が深くなっていきました。実に良いことです。夜の肝試しもやりました。お化けなんかはいないのに、アホ達がいつも怖がり騒いでいました。車で走っている時、夏なのにヒーターをいれて、どこまで我慢できるかを試したり大はしゃぎです。今考えると実にアホです。
三日目にみすぼらしい旅館に泊まりました。ある歳食った生徒が、私たちの宿泊していた三階の部屋からオンナ風呂が見えると申すのです。女風呂をずっと覗いていた生徒が三人位いました。反対のビルディングの階段に他の宿泊客がいて、そこから覗いているのを見られていました。そっちのほうがおもしろかったです。のぞくのをのぞかれた馬鹿どもがいたので、実におかしかったです。五代先生が次の日の朝に「誰だ。昨夜、女風呂を覗いていたのは?」と聞くので、十人ぐらいの生徒が「おっさんの福田さんです」と一差し指で指して、一斉に声を合わせて名指しです。五代先生も私に「本当か」と聞くので答えました。「確かに女風呂か男風呂か、どっちつかずの風呂があって見えましたが誰もいませんでした」と弁解してあげました。おっさんの福田さんは、五代先生に叱られずにすみました。でも、先輩の陳さんには本当のことを言っておきました。確かに三人の女性が入っていました。でも、相当の婆さんだったのです。乳首がドス黒かったです。形がスルメみたいでした。婆さんの顔が梅干でした。目が良く見えないおっさんの福田さんは、婆さんを見て姉ちゃんかと思ってかなり興奮していました。真実を知らない方が幸せなのです。そういう時が人生には結構あるのです。
鹿児島に到着し、宗家先生の家の道場に宿泊することになりました。夕食の後、ギターを弾いて歌っていました。宗家先生の美しい娘さんが出て来て、歌に参加し盛り上がりました。結構遅い時間になり、宴会が終了しました。大会の当日は祝辞があり、私が「半月の型」の演舞を行いました。宗家先生のお褒めの言葉がありとても嬉しかったです。他の生徒は、自由組み手で結構活躍しましたが、三位まで勝ち残れた人はいませんでした。一人の生徒が抜きん出ていました。「螺旋手刀当て」を組み手の最中にジャンジャン使いました。もう一人は、相手が踏み込んだと同時に、右足の踵で蹴り上げを顎にかませました。私たちの空手は完全防具付きなので、寸止めや五分止めがありません。横浜道場から来た私たちは、負け戦の感がありました。でも、九州旅行は良い思い出になりました。
九州旅行より帰った次の日から、いつもの練習が道場ではじまりました。夜の師範代より昼間の師範代にまわされて、がんばり始めた私です。もうヤーさんみたいなガラの悪い生徒はいません。
昼間の生徒は中学生と高校生が多かったです。アメリカンスクールに通う生徒がいました。中国人の生徒が何人かいました。英語と中国語と日本語ができる秀才が三人くらいいて、道場に来ていました。私もその内の一人から英語を習っていました。14歳でしたが、私の英語の先生です。もう一人は、ハーフの少年がいました。テディー君です。15歳でした。彼にも英語の先生になってもらいました。正面蹴りが実に上手にできました。彼が英国に留学している時は、英文で文通していました。テディー君のお母さんはすごい美人でした。鼻が高くて、純日本人でしたが、欧米人のような顔つきです。テディー君のお父さんはイギリス人で、結構日本語ができました。テディー君に兄さんがいましたが、格好良すぎる美男子でいつも女性にもてていました。弟のウィンストン君は色が白くて、お人形さんの様でした。家族五人は山手のほうに住んでいて、お父さんはロケットの部品を作る会社の社長さんでした。
昼間の師範代になって練習していると、一人の綺麗な中国人の女の子が私たちの練習をのぞきに来ていました。ある日、その子が私と付き合いたいと、友達を通じて間接的に言ってきました。ちょっと悪かったのですが「もうすぐアメリカに留学するので、付き合いはできないです」とお断りしました。私には金髪のガールフレンドがいると言えませんでした。でも、石川町の駅をマリーさんと一緒に手を繋いで歩いていると、その子に見られてしまい気まずい思いをしました。ちょっと悪かったかなと思いました。
渡米の少し前、二週間ぐらい五代先生と道場の周りをマラソンしていました。3キロは走っていました。外人墓地やテディー君の住んでいる家の近くをぬけて、セイントジョセフのアメリカンスクールの近くを通って、石川町の南口に出て、チャイナタウンに戻るのです。いつも裸足で走っていました。先生の小さな4畳半の部屋にも行って将来を語りました。他の生徒もいつも来て、その狭い部屋に6人はいつも座っていました。「もしここで暴れたら、絶対に死人か怪我人が出るだろう」なんて脅かす先輩もいました。そんなことを言った時、あることが私の頭をヨギリました。その年の前年、千葉の海岸近くで10人位の生徒と五代先生と合宿をしました。練習場所は、夏だったので小学校の体育館で行いました。休憩時間があって、先輩四人が、五代先生に急に飛び掛りました。4回の鈍い音が聞こえて、先輩達が一瞬で倒れたのです。頭を抱えてうなっている人、首を押さえて泣いている人、失神している人、そして目が真っ赤にはれている四人がそこにいたのです。実にびっくりしました。先輩達も結構強かったんです。しかし、上には上が必ず存在します。
私も先生と自由組み手を道場でしていて、メチャクチャに蹴りを入れられました。一回目は、横蹴りで5メートルぐらい飛ばされました。鏡に体がドーンと当たって、死ぬかと思いました。二回目は二段蹴りが来て、次の瞬間に足の裏の皺が見えました。その後は覚えていません。気が付いた時は、道場の裏にあったベッドに寝ていました。脳震とうを起こしていました。怖かったです。でも、次の日にまた道場に練習に出かけました。
いろいろなことが道場で起こりました。実に楽しい人生経験をさせていただきました。