種子島火縄銃
日本人が初めて火縄銃のような飛び道具を見たのは、元寇の頃です。日本人が火縄銃を手にいれたのが1543年です。ポルトガル人が持参したものを、種子島の若き領主が買い入れたのです。今回の記事は歴史に深入りせず、私が収集している種子島火縄銃の大筒の自慢話を致します。
1989年の秋、日本武術の演武と指導を終えて、イタリアよりサンフラシスコへ戻りました。サンフラシスコ近辺の日本食レストランに『骨董品売ります』の手紙を送り、日本刀の外装、拵え金具をたくさん買ってもらいました。その手紙を見た『ちょうちょうレストラン』の経営者坂田さんが連絡して来ました。「見せたい火縄銃の大筒があり、それをできたら買って下さい。」と申すのです。予約をとって、チャイナタウン近くの『ちょうちょうレストラン』に参りました。10月の下旬の土曜日の夕方で、うすら寒かったです。坂田さんは、私のうわさを聞き「自慢の火縄銃を、譲りたい。」と考えたそうです。私が「大筒の火縄銃を大事にしてくれる。」と思ったそうです。あの頃、私の博物館に35丁の種子島火縄銃がありました。当時の火縄銃一丁の値段は1500ドルから2300ドルでした。長筒、中筒、短筒、馬上筒がありましたが、大筒はなかったです。大筒の値段は、「1万ドル以上は、するだろう。」と考え、現金1万ドルを持参しました。
坂田さんと会い、世間話をしてお茶をご馳走になり、最終的に商談です。坂田さんは二本指を出して、「この値段でどうですか?」と問いました。私はとっさに「2万ドルだ。」と思い、「今日は、1万ドルを渡して、あとの半分は分割払いにしてもらおう。」と決めました。「金額を、この紙に書いて下さい。」とお願いすると、坂田さんは数字を書き始めました。最初に、数字の2が書かれ、零があとに続き、零が3個で止まりました。大筒の値段は、2000ドルでしたので、現金を即座に払い、レストランを出て自宅へ帰りました。
直ぐに大筒の火縄銃を解体して、作動しないカラクリの箇所を修理し、油を入れ、写真を撮りました。銃身下部には銘が三つあり、家紋も上部にあります。口径は120カリバーで、重さは18.63キログラム(41ポンド)です。長さは1.1メートルです。これは、米国で一番大きい種子島銃です。我博物館秘蔵の一つとなりました。
1989年の秋、日本武術の演武と指導を終えて、イタリアよりサンフラシスコへ戻りました。サンフラシスコ近辺の日本食レストランに『骨董品売ります』の手紙を送り、日本刀の外装、拵え金具をたくさん買ってもらいました。その手紙を見た『ちょうちょうレストラン』の経営者坂田さんが連絡して来ました。「見せたい火縄銃の大筒があり、それをできたら買って下さい。」と申すのです。予約をとって、チャイナタウン近くの『ちょうちょうレストラン』に参りました。10月の下旬の土曜日の夕方で、うすら寒かったです。坂田さんは、私のうわさを聞き「自慢の火縄銃を、譲りたい。」と考えたそうです。私が「大筒の火縄銃を大事にしてくれる。」と思ったそうです。あの頃、私の博物館に35丁の種子島火縄銃がありました。当時の火縄銃一丁の値段は1500ドルから2300ドルでした。長筒、中筒、短筒、馬上筒がありましたが、大筒はなかったです。大筒の値段は、「1万ドル以上は、するだろう。」と考え、現金1万ドルを持参しました。
坂田さんと会い、世間話をしてお茶をご馳走になり、最終的に商談です。坂田さんは二本指を出して、「この値段でどうですか?」と問いました。私はとっさに「2万ドルだ。」と思い、「今日は、1万ドルを渡して、あとの半分は分割払いにしてもらおう。」と決めました。「金額を、この紙に書いて下さい。」とお願いすると、坂田さんは数字を書き始めました。最初に、数字の2が書かれ、零があとに続き、零が3個で止まりました。大筒の値段は、2000ドルでしたので、現金を即座に払い、レストランを出て自宅へ帰りました。
直ぐに大筒の火縄銃を解体して、作動しないカラクリの箇所を修理し、油を入れ、写真を撮りました。銃身下部には銘が三つあり、家紋も上部にあります。口径は120カリバーで、重さは18.63キログラム(41ポンド)です。長さは1.1メートルです。これは、米国で一番大きい種子島銃です。我博物館秘蔵の一つとなりました。