私の金髪のガールフレンド達
1960年代に日本でギターを演奏していた頃、ママスアンドパパスの演奏する「夢のカリフォルニア」が大好きでよく歌っていました。四人編成のママスアンドパパスにいた二人の女性歌手の一人がものすごい美人で、名前はミッシェル・フィリップスさんです。クラッシクなカリフォルニア美人です。青い目の金髪で、鼻が高くて、スタイルが良くて、肌の色が透き通るような白です。その同じ頃に、テレビ番組では、バーバラ・イーデン扮する「魔女のジニー(I dream of Jennie)」(1965-1970)と、エリザベス・モンゴメリー扮する「奥様は魔女(Bewitched)」(1966-1972)を見ていました。1960年代の中頃、中学生だった私は白人の女性に滅茶苦茶、震える程にあこがれていました。
中学二年生の時にジュディーさんという、一つ年上のハーフのガールフレンドができました。彼女は父親がアメリカ人で、母親が日本人でした。見た目は茶金髪の美人さんです。身長が165センチありました。私も身長が165センチです。しばらく付き合いましたが、父親の仕事関係でジュディーさんは米国へ帰って行ってしまいました。
私が高校一年生の時、プラチナ金髪で二つ年上のマリーさんと知り合いました。クラスメートの藤井君の紹介です。マリーさんの父親は日本人で、母親はスイス人でした。マリーさんは身長160センチでした。彼女はギターが弾けました。いつも一緒に鎌倉の海岸の浜辺でギターを弾いて歌っていました。レパートリーは「夢のカリフォルニア」「花のサンフランシスコ」「朝日の当たる家」「500マイル」「バスストップ」等です。ビートルズやローリングストーンの曲も歌っていました。おそろいのオレンジ色のトレイナーをいつも着ていました。横須賀のアメリカンスクールに通っていた彼女は、完全なバイリンガルでした。デート中は日本語で話していました。私の悪友達は、「お前、英語できるの?」といつも質問するのです。答えはいつも同じでした。俺は英語ができるから白人の金髪のガールフレンドができたのだと自慢して威張っていました。これは、真っ赤な大うそでした。マリーさんとは、渡米の少し前まで付き合いました。別れがとてもつらく険しかったです。GS(Group Sound)のタイガースの「僕のマリー」の歌詞が思いだされます。『愛してると、ひとこと言えなくて、つらい思いに泣いたのさ…..』
余談ですが、2011年の夏に私立探偵を雇ってマリーさんの行方を探ってもらいました。今、沖縄県の北方に住んでいます。藤井君と結婚しています。ずっと幸せになって下さいと嘆願する私です。
渡米に至り、ものすごい数の金髪美人と出会いました。アメリカ女性は実に親切丁寧で、やさしいです。私は、日本の武道武術ができてエレキギターが演奏できるので、実に女性にもてました。おまけに、日本料理、中華料理が作れて指圧ができるので家に返してくれません。空手着と忍者装束も商業用のシンガーミシンで縫っていました。洋服、女性用のドレス、子供服も縫えます。同じような趣味を持つ女性もかなりいたので、話しが合うと直ぐに意気投合です。運転技術も人の三倍上手なので、ドライブに誘ったりしていつも金髪女性と一緒に楽しいアメリカ生活をしていました。
1978年ごろより矯正歯科技工士になって会社勤めをしました。いつも50人から55人のデンタルアシスタントの女性が会社にいました。男の会社員は、私を混ぜてもたった4人です。会社では、いろいろなハプニングがありました。ありとあらゆる年齢層の女性といろんな人種の女性が会社にいました。数週間で辞める人、数ヶ月で辞める人、数年で辞める人がいました。長くいた女性は10年以上も働いていました。会社では、いつもパーティーがあって、社員旅行もあり実に楽しかったです。会社の社長がワインの愛好者で、2660本のワインが自宅に置いてありました。ナパやソノマに、大型バスでのワインツアーも年に2、3回ありました。いろいろな代役を、女性社員にさせられました。夫、愛人、ボーイフレンド、兄貴、弟等です。22年もの間、たくさんの女性に囲まれて、毎日楽しく働きました。竜宮城みたいでした。この経験は私の財産です。
1973年に設立した日本武術鍛錬協会の道場では、女性の生徒が常時2割程練習に来ていました。料理教室も1975年頃より教え始めました。1977年の夏頃から、家庭訪問式の指圧と柔軟体操、ストレッチも教え始め、女性客が8割以上いました。しかし、道場の生徒からは月謝を頂いているので、親しい仲にはなりきれません。しかし、1981年の夏に、実に気に入った女性を発見してしまいました。インテリで、青い目の金髪で、鼻が高くて、スタイルが良くて、肌の色は、透き通るような白です。そうです。最愛の妻クララさんです。愛しのクララさんです。
中学二年生の時にジュディーさんという、一つ年上のハーフのガールフレンドができました。彼女は父親がアメリカ人で、母親が日本人でした。見た目は茶金髪の美人さんです。身長が165センチありました。私も身長が165センチです。しばらく付き合いましたが、父親の仕事関係でジュディーさんは米国へ帰って行ってしまいました。
私が高校一年生の時、プラチナ金髪で二つ年上のマリーさんと知り合いました。クラスメートの藤井君の紹介です。マリーさんの父親は日本人で、母親はスイス人でした。マリーさんは身長160センチでした。彼女はギターが弾けました。いつも一緒に鎌倉の海岸の浜辺でギターを弾いて歌っていました。レパートリーは「夢のカリフォルニア」「花のサンフランシスコ」「朝日の当たる家」「500マイル」「バスストップ」等です。ビートルズやローリングストーンの曲も歌っていました。おそろいのオレンジ色のトレイナーをいつも着ていました。横須賀のアメリカンスクールに通っていた彼女は、完全なバイリンガルでした。デート中は日本語で話していました。私の悪友達は、「お前、英語できるの?」といつも質問するのです。答えはいつも同じでした。俺は英語ができるから白人の金髪のガールフレンドができたのだと自慢して威張っていました。これは、真っ赤な大うそでした。マリーさんとは、渡米の少し前まで付き合いました。別れがとてもつらく険しかったです。GS(Group Sound)のタイガースの「僕のマリー」の歌詞が思いだされます。『愛してると、ひとこと言えなくて、つらい思いに泣いたのさ…..』
余談ですが、2011年の夏に私立探偵を雇ってマリーさんの行方を探ってもらいました。今、沖縄県の北方に住んでいます。藤井君と結婚しています。ずっと幸せになって下さいと嘆願する私です。
渡米に至り、ものすごい数の金髪美人と出会いました。アメリカ女性は実に親切丁寧で、やさしいです。私は、日本の武道武術ができてエレキギターが演奏できるので、実に女性にもてました。おまけに、日本料理、中華料理が作れて指圧ができるので家に返してくれません。空手着と忍者装束も商業用のシンガーミシンで縫っていました。洋服、女性用のドレス、子供服も縫えます。同じような趣味を持つ女性もかなりいたので、話しが合うと直ぐに意気投合です。運転技術も人の三倍上手なので、ドライブに誘ったりしていつも金髪女性と一緒に楽しいアメリカ生活をしていました。
1978年ごろより矯正歯科技工士になって会社勤めをしました。いつも50人から55人のデンタルアシスタントの女性が会社にいました。男の会社員は、私を混ぜてもたった4人です。会社では、いろいろなハプニングがありました。ありとあらゆる年齢層の女性といろんな人種の女性が会社にいました。数週間で辞める人、数ヶ月で辞める人、数年で辞める人がいました。長くいた女性は10年以上も働いていました。会社では、いつもパーティーがあって、社員旅行もあり実に楽しかったです。会社の社長がワインの愛好者で、2660本のワインが自宅に置いてありました。ナパやソノマに、大型バスでのワインツアーも年に2、3回ありました。いろいろな代役を、女性社員にさせられました。夫、愛人、ボーイフレンド、兄貴、弟等です。22年もの間、たくさんの女性に囲まれて、毎日楽しく働きました。竜宮城みたいでした。この経験は私の財産です。
1973年に設立した日本武術鍛錬協会の道場では、女性の生徒が常時2割程練習に来ていました。料理教室も1975年頃より教え始めました。1977年の夏頃から、家庭訪問式の指圧と柔軟体操、ストレッチも教え始め、女性客が8割以上いました。しかし、道場の生徒からは月謝を頂いているので、親しい仲にはなりきれません。しかし、1981年の夏に、実に気に入った女性を発見してしまいました。インテリで、青い目の金髪で、鼻が高くて、スタイルが良くて、肌の色は、透き通るような白です。そうです。最愛の妻クララさんです。愛しのクララさんです。