私の財産:矯正歯科医師株式会社での22年
1977年の夏より、矯正歯科医師の一の谷先生の元で歯科技工士(デンタルテクニシャン)になって、会社勤務を始めました。患者さんのリテイーナーをたくさん工作していました。普通の人がリテイナーを一つ工作するのに約40分から60分位の時間を費やします。しかし、私は一つのリテイナーの工作を12分の時間で仕上げていました。私の働く矯正歯科医師会社のラボラトリーの場所は、サンフランシスコのチャイナタウン近く450 Sutter Streetのメディカルデンタルビルディングの19階でした。このラボラトリーでは、男三人のデンタルテクニシャンが週五日間働いていました。
同じ場所のビルディング24階に会社の二番目オフィスが存在し、デンタルアシスタントの女性が15人から20人位いつも働いていました。メインオフィスのあるサンブルーノでは、25人から30人位の女性がいつも働いていました。三番目のオフィスもありました。サンフランシスコのClement StreetとGeary Blvdの間の10番街です。合計三カ所のオフィスで、50人前後の女性が常時勤務していました。九割近くがデンタルアシスタントです。中には秘書として働く女性、看護婦さん、受付担当のレセプショニストが合計8人いました。会社では毎月パーティーがあって、社内旅行でラスベガス方面へのツアー、ヨセミテ国立公園ツアー、モントレーカーメル方面へのツアー、大型バスでナパへのワインテイスティングもあり、サンフランシスコ近辺と市内にある中華料理店、フランス料理店、イタリア料理店、日本食店での食事会もあり実に楽しかったです。
会社勤務の一年目は、バート(Bart/Bay Area Rapid Transit)に乗って通勤していました。その頃に住んでいた、墓場の町で有名なColma Townよりサンフランシスコ・ダウンタウンへ通勤していました。Daly City駅よりバートに乗り、Powell Street駅で下車です。歩いて15分、ホテル街とユニオンスクエアを通過し会社に到着です。バートでの通勤は日本の東京をいつも思いださせてくれました。ランチタイムは、チンチン電車のケーブルカーに乗って5分、サンフランシスコのチャイナタウンに簡単な昼食に行っていました。当時、乗車賃金は25セントでした。ランチの値段が2ドル位でした。チンチン電車のケーブルカー乗車賃はほとんどが只でした。なぜなら、ケーブルカーのグリップマンをしていた腕っ節の強いポーランド人が桑港剣術道場の生徒の一人だったからです。スタンと言う名の彼が、ケーブルカーでグリップマンをしている時はいつも乗車賃を払いませんでした。ケーブルカーにはいつも飛び乗りです。一年間ほど、このような状態が続きました。
その後、社長から私のVW1971年型の車を使って会社で使う器具、器材や荷物を、当時三箇所あったオフィスの場所に運搬することを頼まれたのです。会社は、私専用の駐車場を用意してくれました。しかし、1978年の冬頃より運搬する荷物や器材の量が増え続けました。コンパクト車だった私のフォルクスワーゲンスーパービートル(かぶと虫)では多くなった荷物は運びきれず、1979年の春頃に会社に頼んで、中古車のVW1971年型のバスの買い入れを申請しました。バスの買い入れ価格2300のドル半分を会社から出していただきました。私の濃紺色のVW1971年製のかぶと虫は、1971年の時点で1850ドルの値段でした。バスの買い入れ後、バスの真ん中にあった三人用の座席を取りはずしたので荷物がたくさん載せられるようになりました。どでかい冷蔵庫、テレビや家具も簡単に運ぶことができました。私のバスを使って、女子社員達の引越しを手伝ってあげたことがたくさんありました。姉ちゃん達がメチャクチャ喜んでいました。
中古のバスを買った直ぐ後に、ゴールデン・ゲート・パークの近くにあったFell Streetの陸運局へ出向いて、商業用のライセンスプレートを申請して発行してもらいました。会社近くのチャイナタウンのイエローゾーンに止まれることができるようになりました。その二週間ぐらい後に、道路交通の法律が変わって、私のバスはトラックゾーンには止められなくなりました。トラックゾーンには、黒と黄色のコンビのペンキが道路の端に塗ってあります。私のバスは、ソリッドの黄色のゾーンにしか止められなくなりました。それでも、チャイナタウンのイエローゾーンはたくさんありました。私のランチタイムは、11時から12時まででした。
昼の12時頃に私がランチから帰ると、デンタルアシスタントの姉ちゃん達が24階のオフィスから19階のラボラトリーにランチを持参して降りてくるのです。にぎやかな光景です。爆笑したり。はしゃいだり。大声で話したり。大変な騒ぎです。世間話をしたり、愛人、旦那、ボーイフレンドなどの話しも必ずします。ゴシップがメチャクチャ多いです。幾人かの女子社員より、悩み事の相談を持ちかけられたこともたくさんありました。私は会社で聞き上手だといううわさが立ちました。借金の相談意外の全ての願いを、かなえてあげました。いろんなことを、常時20人から30人いる姉ちゃん達から聞かされます。すごく大変でした。
ランチタイムが終わり、午後1時になると静かな男三人だけの歯科技工士の19階の仕事場に戻るのです。毎日午後1時半頃に、いつも昼寝を 20分位していました。4時になると退社時間です。配達の時が来るのです。ビルの裏の道のBush Streetからバスで出て、Stockton Streetで左折して、一方通行のPine Streetでまた左折して、12分位で10番街にある三番目オフィスに到着です。そこへ配達へ行かない時は、サンフランシスコ日本町の少し手前のGough Streetで左折してCentral Freewayでサンブルーノ市のメインオフィスに直行です。その後は、桑港剣術道場へ武道武術の練習に参ります。余談ですが、当時そこに存在したFreewayの入り口は現在ありません。1989年に起きた大きな地震の後に壊されました。朝早くにも、よく配達をしておりました。逆にサンブルーノ市のメインオフィスから、二番目か三番目オフィスに会社で使う器具、器材や荷物を配達するんです。その後、我仕事場19階に到着です。会社からガソリン代、特別な給料も出ていました。金が溜まる一方です。何も不自由無しで生きていました。それでストレスはまったくありません。
1980年の後期頃より、パートタイムとして会社で働くことを決めました。イタリア、英国、ドイツへの武術の指導の遠征旅行に出かけ始めたのです。1991年からは、日本で刀鍛冶としての修業と日本刀の修理修繕の修業に励みました。1995年からは、会社には週に2回の出勤でした。同じ年に桑港日本刀修理修繕所を設立したので、たくさんの仕事を承って大金が入って来ました。1997年の秋頃、社長の一の谷先生に「2年位したら退職します」とはっきり伝えました。退職したのは1999年の夏でした。22年もの間、たくさんの女性に囲まれて、親しい友人もたくさんできて毎日楽しく働きました。この経験は私の一生涯の財産です。
22年間の矯正歯科医師株式会社の勤務中に出会った人々は、相当におります。これから登場する人物像は少数の人々ですが、最もインパクトが強かった人々です。
社長の一の谷先生
すごい大金持ちで、情けがあり、親切で、思いやりもありました。私を優遇してくれて、家族ぐるみの付き合いをしてくれました。Hillsboroughの豪邸に住んでいました。裏庭には、本格的な大きな日本式の庭園がありました。日本から、有名な88歳の庭園デザインナーの先生を呼んで来て池を作り、でっかい鯉がたくさん泳いでいました。でっかい石も日本から持ってきました。竹藪があって、そこで剣術の試し切り用の練習もしていました。桑港剣術道場にも、かなりの青竹を切って持ち帰りました。
社長の隣の家には、有名な映画俳優で歌手のビング・クロスビーさんが住んでいました。娘さんも映画俳優ですごい美人です。何回か会い、ギターを弾いて歌ってあげると、実に喜んでくれました。社長宅の裏には、ドールバナナ会社の副社長が大家族と一緒に住んでいました。息子のブルースジュニアは弁護士で、私の教える日本の武術に興味を持っていました。手裏剣術を見せると、教えてくれというので、しばらくの間指導していました。社長には、娘さんが二人、息子さんが一人いました。奥さんは大学の先生でした。週末は、三人の女性に指圧と柔軟体操を教えていました。息子さんは、拳銃、ライフル、日本刀が大好きで、空手術と剣術を教えていました。今SFPDでシェリフをしています。二人の娘さんは、イタリア人と結婚して、イタリアに住んでいます。番犬として、アフリカからやってきたロデジアンリッジバックのオスとメスが裏庭にいました。私は、この二頭の犬に初対面ですぐに慣れてしまったので、社長の家族のみんながびっくりしました。チャイナタウンに住む奥さんのお兄さんは、えさを二匹の犬にあげている時に両手を噛まれてしまいました。犬達は、私にいつもチューをしてくれました。私の顔と手をメチャクチャ舐めるのです。
1979年の夏のある日の午後に社長の家に行くと、US Senatorの松永氏がいました。お話をすると、松永先生はすごく日本語がうまかったです。社長はUS Senatorの井上さんとも友達です。
社長はハワイ出身です。1950年の終わりごろ、社長は日本に駐留していた米軍の将校として勤務をしていて、横浜の山手に住んでいたそうです。その時の写真を見せてくれました。US Armyの大尉でした。社長は三回程、ロータリークラブでの講義を頼まれたので、私はお抱え運転手として社長を高級車の後ろに乗せてモントレーカーメルに運転して行ったことがあります。でかいアメ車のキャデラックか、4ドアのダイムラーベンツを運転しました。社長にも、450 Sutter Streetの24階のオフィスで、健康維持の為の指圧をしてあげていました。指圧の後の夕食はいつも決まっていて、ジョー石崎さん経営の大和レストランに連れて行かれました。
ジョーさんは戦時中、有名な442二世部隊の兵士としてイタリアに駐屯していました。戦利品として、ドイツのルーガー自動拳銃をドイツ兵から奪い取ったそうでいつも自慢していました。ジョーさんの日本食レストランは、サンフランシスコチャイナタウンの入り口近くのカリフォルニア街とグラント街の交差したところにありました。天皇陛下もお食事をしたことのある『天下の大和』と呼ばれる日本食レストランです。畳の部屋がありました。
社長の家で週末に指圧、柔軟体操を指導した後は、家族全員と一緒に夕食です。キージュンという名の高級中華料理店へよく連れて行ってもらいました。私をいつも優遇してくれて、家族ぐるみの付き合いをしてくれました。社長の家族の皆様の親切と恩は一生涯忘れません。感謝致します。
ゲイルさん
1978年の6月に高校を卒業して、すぐにサンブルーノのメインオフィスでデンタルアシスタントとして勤務し始めました。プラチナブロンドの美人です。ハリウッド女優のバーバラ・イーデンさんにそっくりでした。
ゲイルさんは、不良のボーイフレンドに悩まされていました。相談を持ちかけられて、兄貴の立場で話を聞いてあげました。ゲイルさんは、パシフィカ市に住んでいたので、彼女と海辺で話したことが何回かありました。一度デートに誘ったのに来なかったので、何気なく聞いてみました。不良のボーイフレンドとまた寄りを戻そうとしたらしく、しばらくは連絡せず放ってって置いてあげました。会社では顔を合わせていましたが、外出はしばらく控えて一緒にしませんでした。しばらくして、不良のボーイフレンドと完全に別れたので、彼女と親密なお付き合いをさせていただきました。でも、デート中はいつも人目を気にしているみたいでした。彼女との親密な交際は、会社の誰も知りませんでした。
でも、一度だけ発覚してしまったことがあります。同僚のテレサがゲイルさんに変な質問をいきなりした時でした。「貴方は本当にブロンドなの?」私は「はい、確かにそうです」と言ってしまいました。それを聞いたテレサさんは、うなずいてから苦笑いです。でも、周りには私たち三人以外には誰もいなかったので、三人の秘密ということになりました。しばらくゲイルさんと交際が続きましたが、彼女はモデスト市に引越しました。風のうわさで、彼女は23歳頃に結婚したそうです。旦那の名前はダスティンです。今でも二人の幸せを、私は祈ってい ます。
リサさん
1986年にサンブルーノのメインオフィスでレセプショニストとして勤務し始めました。イタリア系アメリカ人で、ブルネットのグラマーなものすごい美人です。彼女には旦那さんがすでにいました。私は、彼女の綺麗な顔が大好きで、いつも美人さんとかドリームガールさんとか言ったりして、わくわくし、うきうきもしていました。もちろん、リサさんは私にガールフレンドがいたことを知っていました。会社でパーティーがあると、いつも彼女の隣にすわっていました。
リサさんはいつも頭痛で悩まされていました。その理由は、彼女の胸が非常に大きかったからです。私は、指圧を職業として飯を食っていたので、すぐに判りました。彼女の首、腕、肩を指圧でほぐしてあげました。頭痛に効くつぼを三箇所押し続けて、二週間位で頭痛はなくなりました。でも、しばらくは朝の5分間位の指圧をサンブルーノのメインオフィスで続けていました。彼女が好きだったからです。他の数人の女性社員から嫉妬に満ちた言葉でいつも問われます。「どうしてリサだけが、只の指圧を受けられるのか?」私は、何も言わず笑って受け流していました。
1989年の10月に武術のデモのため、イタリアに遠征旅行に行きました。帰りのお土産を買いました。フランス製の香水のシャネルの5番です。2瓶買いました。一つは、いとしのクララさんの為にです。もう一つはリサさんの為にです。リサさんにシャネルの5番の香水をプレゼントした後、会社の同僚の女性の目がメチャ怖いのに気付きました。何人かは、馬鹿なことを言います。「ハルさんは、リサのでかい胸が好きなので特別待遇をしているのだ」と申すのです。私も今回は少しどぎつく言ってやりました。「あんた達も、エクササイズとか何か特殊な体操をしてその貧乳をどうにかしろ。そして、その貧相な胸が大きくなったら、いつでも只の指圧を喜んでしてやる」と強く言ってやったのです。その後は、うわさなどが少しおさまりましたが、私もちょっと反省を致しました。女の大体がアホだから、特別な一人の女性を褒めたり持ち上げると、機嫌が悪くなりがむしゃらに怒りだすのです。でも何人か、理解があり信用できる同僚の女性達は私のことを解ってくれていました。私はリサさんのフレンドリーな性格が第一番目に好きだから、よしなに致したんですよと言いました。彼女の胸の大きいのはすごく目立ちますが、 あまり関係がないんです。リサさんと会社以外の場所で会ったことは一度もありませんでした。リサさんは三年くらい勤務して退職しました。会社の女性の一人が、1995年にリサさんとタンフォランのショッピングセンターでばったり会った時、彼女がすごい肥満体だったそうです。それを聞いて私のリサさんへのイメージがぶち壊れたのです。がっかりして打ちひしがれました。
バーバラさん
バーバラさんと会ったのは1984年頃です。彼女は社長のガールフレンドでした。二人の出会った場所はFairmont Hotelのバーです。金髪で胸がどでかい女性がバーに座っていたので、社長はひと目惚れしてメロメロになり、バーバラさんと交際を始めました。
社長の秘書として会社から給料をもらっていました。バーリンゲームに新しいオフィスができて、社長と四人の秘書と一緒にバーバラさんは秘書兼ガールフレンドとして働いていました。そのオフィスに行くことのできる社員は限られていました。社長には、他に3人のガールフレンドがいて、私はその女性達に会ったことが何回かありました。3人の女性全員の胸が異常にでかかったです。社長は、3人全員に全く同じ香水をプレゼントしていました。同じ匂いです。3人共にハニーと呼ばれていました。これで名前の呼び違えは絶対に起こりません。
私はバーバラさんのお抱え運転手になりました。彼女の住むアパートから、社長宅への送迎をおおせつかっていました。たまにPier 39やユニオンスクエア、SFダウンタウンなどでバーバラさんを降ろしたこともあります。私たちはある日、親しい友達になっていました。彼女には悲しい過去がありました。8歳の時、実の父親に犯されたそうです。13歳で売春婦になったそうです。1000人以上の男性と性的交渉を持ったと言っていました。私が彼女と会った時、年は二つ上でした。バーバラさんと、ぶっちゃけた話を送迎の運転中にたくさん致しました。彼女は、私の性教育の先生になってくれました。種々の質問をしてすごく勉強になりました。だんだん彼女を友達として好きになりました。なぜか、彼女を尊敬し始めました。
ものすごくどでかい胸をしていたので頭痛にも悩まされていました。時間が許す限り、私の得意の指圧をしていましたが、アル中だったので頭痛は完全には取り除けません。彼女の片胸は、私の頭のサイズよりも二割位大きかったです。彼女とは一度も男女の関係に発展したことはありませんでした。一度だけ、胸に触れさせていただいたことがありました。すごい高級品でした。本物です。シリコン入りではないのです。しかし、実のところ持て余す程に大きく、どうしたら良いのか分からないんです。乳房の張り、大きさ、形状等がすばらしく、乳首の色もピンク色でした。1989年の10月に私がイタリアから帰ると、彼女は会社にいませんでした。ちょっとさびしかったです。1992年頃若くして他界したそうです。
テレサさん
ちょっと太めのデンタルアシスタントでした。1980年頃から入社していました。彼女とは、なぜかウマが合いました。実に陽気で面白かったです。私の英語も結構、面倒見てみてくれました。私の数字の「40」のスペリングが、FortyかFourtyかはっきりしなかった時に、Fortyと親切に教えてくれました。いろんなAmerican Jokesを習いました。やっぱりNative Speakerはすばらしいですね。会社のパーティーでは、酔っ払うと彼女が一番ハメをはずしていました。酔うと、どぎつくシンドクなります。ものすごくエロくなります。必ずバナナイーティングコンテストが始まります。他の姉ちゃん達も、つられてバナナイーティングコンテストに参加です。これは、どぎつすぎるのでちょっと申しがたいです。1988年頃に、テレサさんにフランス人のボーイフレンドができました。彼女の住んでいたアパートのテナントだったそうです。名前はアントワンと言っていました。テレサさんは今、サンフランシスコの北方のペタルマ市に住んでいて、アントワンの友達と結婚しています。
上司のウォングさん
1977年の7月に仕事の面接の時に始めて会いました。社長の奥さんとウォングさんの奥さんが実の姉妹でした。面接の後、すぐに義理の兄さんと相談して私を雇ってくれました。ウォングさんはその頃、40歳ぐらいで社長は50歳でした。歯科技工士の仕事の全てを教えてくれました。
私が3ヶ月で仕事を覚えると実にびっくりしていました。以前に雇った人たちは仕事を覚えるのが遅く、一年しても仕事ができないので会社のために全然、役に立たなかったそうです。口答えはするし、態度もひどかったそうでした。私は、実に義兄弟である社長と上司に気に入られ、一生懸命に会社のために働きました。ウォングさんは米国生まれの中国人でいろんなことを私に教えてくれました。結構ぶっちゃけたことも、面白おかしく話していました。社長の秘密も私に話してくれました。
1980年頃、気の良いおとなしいウォングさんにガールフレンドができました。24階のオフィスの受付で働くパートタイムのレセプショニスト見習いの若い女性でした。実にやばかったです。年が17歳で高校生でした。私は、彼女が18歳になるまで、絶対に性交渉を持ってはいけないと助言してあげました。米国の法律は一方的に未成年の味方です。おっさんの味方ではありません。私は、会社の上司に監獄に入って、オレンジ色のユニフォームを着てほしくなかったのです。ウォングさんも私の言うことを聞いてくれました。
6ヵ月後に、3人でアンジーさんの18歳の誕生日を祝いました。私のガールフレンドと4人でダブルデートしたこともありました。その頃私は、3人の子持ちの28歳の女性としばらく付き合っていました。会社に入る少し前は、違う4人の子持ちの29歳の女性と付き合っていたことを話すと、ウォングさんは笑っていました。私と付き合っていた二人のガールフレンドは、共にラテン系アメリカ人でエギゾチックな顔をしていました。でも、本当に結婚して生涯一緒に暮らしたいと思った女性は、その時の時点ではまだ見つかっていませんと言いました。その時が来たら、社長かウォングさんが仲人になってくれると言ってくれました。
ウォングさんは、便秘と痔で悩んでいました。私の親父もそうで、痔の原因は酒の飲み過ぎです。便秘は指圧である程度、体の調子を整えてあげました。一緒にチャイナタウンに参ってランチタイムに野菜をたくさん食べることを薦めました。便秘はすぐに改善され、体調が良くなりました。痔は酒をやめない限り絶対に無理です。若い女性と付き合っていたウォングさんは、今度は違う悩みに遭遇です。元気がなくなって、彼女を性的に満足させられないのだと言うのです。私は、赤マムシ酒、沖縄のハブ酒とコリアン人参の話をしてあげました。それから、秘伝を伝授してあげました。しばらくして、大喜びのウォングさんです。夕食をご馳走してくれました。1990年にウォングさんはアンジーさんと別れました。奥さんに発覚したと言っていました。追求が猛烈に激しくなったそうです。いつも、愚痴を言って泣いていました。そして、飲む酒の量が多くなりました。いつもヤケクソでした。株にも失敗して大損をしたのもその頃です。上司のウォングさんには1999年の退職の日までお世話になったのです。
ユジーン君
ウォングさんの息子で、私の働く19階のラボラトリーでパートタイムとして働いていました。歳は17歳でした。2年くらい働いて1979年のクリスマス頃に会社を辞め、大学に通い始めました。彼の仕事の受け持ちは、24階から運ばれて来た患者さんの歯型に、石膏を流し込んで実物サイズの歯と歯ぐきのモデルを作る役目でした。仕事中は、いつもジョージ・ベンソンの音楽を聴いていました。ランチタイムは一緒にチャイナタウンに行ったりしていました。毎月の会社のパーティーでは、いつも女性の社員からおちょくられていました。飲めない酒を飲まされたり、ふんだりけったりです。でも優しい思いやりのある青年でした。ガールフレンドができないので、父親のウォングさんがいつも心配していました。跡継ぎは大丈夫かと気にするウォングさんです。私にそれとなく、ホモであるか否かを探ってくれと申すのです。いろいろ吟味した結果、ホモではありませんでしたと報告致しました。1979年に、父親のウォングさんが露した、にっこりしたすがすがしい顔を私は今でも忘れられません。
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実物大の歯型の石膏には実にお世話になりました。歯型を見ただけで、それが白人、黒人、東洋人の誰だかが判断できるようになりました。女性か男性なのかも見分けられます。1979年の初め頃に米国政府から我矯正歯科医師株式会社に依頼がありました。1978年の11月8日に起こった、900人以上の死者を出した、グヤナのジョーンズタウンでのオカルト宗教の大量自殺事件です。死者の中に、我が会社の患者が何人かいて、歯型で身元を確認したのです。いやな仕事でした。
22年間の会社勤務で、いろいろなアメリカ人女性に会いました。若い女性もいれば、結構歳を食った女性もいました。若い女性は言うことが大体決まっていました。金持ちの旦那さんがほしいのです。金持ちの男性と結婚したいのです。私は、彼女たちにいつも全く同じの質問をしていました。「金持ちの奥さんになれるような資格を持っていますか?」「女としての基本的な技術の炊事、洗濯、料理はできますか?」「男性を持ち上げ、援助して行けますか?」「肉体的だけではなく、精神的な援助もできますか?」もちろん、会社で働く9割9分9厘の若い女性に、金持ちの男性と結婚できる資格はありませんでした。努力をしないで楽に生きたい女が多過ぎるのです。自分の身のほどを知らない女性達です。悲しいことです。
私が退職したすぐ後、一の谷先生が2人の矯正歯科医師に会社を売りました。一人は香港から来た中国人男性でシェン先生です。もう一人は、デンマークの女性でトーマー先生です。二人は、私が働き始めた頃は、矯正歯科医師になる為の学校へ通っていたStudent Doctorsでした。会社の名前だけが変わり、今まで働いていた会社員はそのまま仕事を続行することになったそうです。
2011年の1月末、昔の上司のウォングさんからE-mailで連絡がありました。来たる2月の某日に、元矯正歯科医師株式会社の会社員達だけでの夕食会を催したいという内容でした。私はどんなことがあっても参加したいと言いました。ついにその日が来ました。2011年2月11日、金曜日の夕方5時にCalifornia StreetとHyde Streetの交差した近くのバーで待ち合わせです。私がそこへ時間通りに参ると、ウォングさんと元デンタルアシスタントのSupervisorシャロンさんが待っていました。
シャロンさんとは、退職後にCow Palaceのガンショウで年に3回ぐらいは旦那さんと一緒に来ていたので会っていました。Mission Streetでも、何回か買い物をしていたシャロンさんと会ったこともあります。シャロンさんの旦那さんが、Cow Palace のガンショウに持参した鍔を鑑定したことがあります。しばらくして、テレサさんとオードリーさんがやって来ました。二人共ペタルマ市に住んでいて、近所付き合いをしているそうです。昔私が大好きで飲んでいたテキーラサンライズをオーダーしてくれました。昔の話にメチャクチャ花が咲きました。一番若いオードリーさんは55歳でした。彼女は、昔はすごく痩せていて私の好みのタイプではなかったですが、今は少し肉付きが良くなっていて見栄えが良かったです。テレサさんは相変わらず、オモロイ冗談の連発でした。皆さん酔いもまわり、バーの隣の中華料理店に突撃です。赤ワインがたくさん出て、笑いが絶えません。海産物、フカひれスープも混ざった9コースの豪華な食事が出ました。昔を思い出す私達でした。次回は社長も招待して夕食会を催す約束をして帰宅しました。
同じ場所のビルディング24階に会社の二番目オフィスが存在し、デンタルアシスタントの女性が15人から20人位いつも働いていました。メインオフィスのあるサンブルーノでは、25人から30人位の女性がいつも働いていました。三番目のオフィスもありました。サンフランシスコのClement StreetとGeary Blvdの間の10番街です。合計三カ所のオフィスで、50人前後の女性が常時勤務していました。九割近くがデンタルアシスタントです。中には秘書として働く女性、看護婦さん、受付担当のレセプショニストが合計8人いました。会社では毎月パーティーがあって、社内旅行でラスベガス方面へのツアー、ヨセミテ国立公園ツアー、モントレーカーメル方面へのツアー、大型バスでナパへのワインテイスティングもあり、サンフランシスコ近辺と市内にある中華料理店、フランス料理店、イタリア料理店、日本食店での食事会もあり実に楽しかったです。
会社勤務の一年目は、バート(Bart/Bay Area Rapid Transit)に乗って通勤していました。その頃に住んでいた、墓場の町で有名なColma Townよりサンフランシスコ・ダウンタウンへ通勤していました。Daly City駅よりバートに乗り、Powell Street駅で下車です。歩いて15分、ホテル街とユニオンスクエアを通過し会社に到着です。バートでの通勤は日本の東京をいつも思いださせてくれました。ランチタイムは、チンチン電車のケーブルカーに乗って5分、サンフランシスコのチャイナタウンに簡単な昼食に行っていました。当時、乗車賃金は25セントでした。ランチの値段が2ドル位でした。チンチン電車のケーブルカー乗車賃はほとんどが只でした。なぜなら、ケーブルカーのグリップマンをしていた腕っ節の強いポーランド人が桑港剣術道場の生徒の一人だったからです。スタンと言う名の彼が、ケーブルカーでグリップマンをしている時はいつも乗車賃を払いませんでした。ケーブルカーにはいつも飛び乗りです。一年間ほど、このような状態が続きました。
その後、社長から私のVW1971年型の車を使って会社で使う器具、器材や荷物を、当時三箇所あったオフィスの場所に運搬することを頼まれたのです。会社は、私専用の駐車場を用意してくれました。しかし、1978年の冬頃より運搬する荷物や器材の量が増え続けました。コンパクト車だった私のフォルクスワーゲンスーパービートル(かぶと虫)では多くなった荷物は運びきれず、1979年の春頃に会社に頼んで、中古車のVW1971年型のバスの買い入れを申請しました。バスの買い入れ価格2300のドル半分を会社から出していただきました。私の濃紺色のVW1971年製のかぶと虫は、1971年の時点で1850ドルの値段でした。バスの買い入れ後、バスの真ん中にあった三人用の座席を取りはずしたので荷物がたくさん載せられるようになりました。どでかい冷蔵庫、テレビや家具も簡単に運ぶことができました。私のバスを使って、女子社員達の引越しを手伝ってあげたことがたくさんありました。姉ちゃん達がメチャクチャ喜んでいました。
中古のバスを買った直ぐ後に、ゴールデン・ゲート・パークの近くにあったFell Streetの陸運局へ出向いて、商業用のライセンスプレートを申請して発行してもらいました。会社近くのチャイナタウンのイエローゾーンに止まれることができるようになりました。その二週間ぐらい後に、道路交通の法律が変わって、私のバスはトラックゾーンには止められなくなりました。トラックゾーンには、黒と黄色のコンビのペンキが道路の端に塗ってあります。私のバスは、ソリッドの黄色のゾーンにしか止められなくなりました。それでも、チャイナタウンのイエローゾーンはたくさんありました。私のランチタイムは、11時から12時まででした。
昼の12時頃に私がランチから帰ると、デンタルアシスタントの姉ちゃん達が24階のオフィスから19階のラボラトリーにランチを持参して降りてくるのです。にぎやかな光景です。爆笑したり。はしゃいだり。大声で話したり。大変な騒ぎです。世間話をしたり、愛人、旦那、ボーイフレンドなどの話しも必ずします。ゴシップがメチャクチャ多いです。幾人かの女子社員より、悩み事の相談を持ちかけられたこともたくさんありました。私は会社で聞き上手だといううわさが立ちました。借金の相談意外の全ての願いを、かなえてあげました。いろんなことを、常時20人から30人いる姉ちゃん達から聞かされます。すごく大変でした。
ランチタイムが終わり、午後1時になると静かな男三人だけの歯科技工士の19階の仕事場に戻るのです。毎日午後1時半頃に、いつも昼寝を 20分位していました。4時になると退社時間です。配達の時が来るのです。ビルの裏の道のBush Streetからバスで出て、Stockton Streetで左折して、一方通行のPine Streetでまた左折して、12分位で10番街にある三番目オフィスに到着です。そこへ配達へ行かない時は、サンフランシスコ日本町の少し手前のGough Streetで左折してCentral Freewayでサンブルーノ市のメインオフィスに直行です。その後は、桑港剣術道場へ武道武術の練習に参ります。余談ですが、当時そこに存在したFreewayの入り口は現在ありません。1989年に起きた大きな地震の後に壊されました。朝早くにも、よく配達をしておりました。逆にサンブルーノ市のメインオフィスから、二番目か三番目オフィスに会社で使う器具、器材や荷物を配達するんです。その後、我仕事場19階に到着です。会社からガソリン代、特別な給料も出ていました。金が溜まる一方です。何も不自由無しで生きていました。それでストレスはまったくありません。
1980年の後期頃より、パートタイムとして会社で働くことを決めました。イタリア、英国、ドイツへの武術の指導の遠征旅行に出かけ始めたのです。1991年からは、日本で刀鍛冶としての修業と日本刀の修理修繕の修業に励みました。1995年からは、会社には週に2回の出勤でした。同じ年に桑港日本刀修理修繕所を設立したので、たくさんの仕事を承って大金が入って来ました。1997年の秋頃、社長の一の谷先生に「2年位したら退職します」とはっきり伝えました。退職したのは1999年の夏でした。22年もの間、たくさんの女性に囲まれて、親しい友人もたくさんできて毎日楽しく働きました。この経験は私の一生涯の財産です。
22年間の矯正歯科医師株式会社の勤務中に出会った人々は、相当におります。これから登場する人物像は少数の人々ですが、最もインパクトが強かった人々です。
社長の一の谷先生
すごい大金持ちで、情けがあり、親切で、思いやりもありました。私を優遇してくれて、家族ぐるみの付き合いをしてくれました。Hillsboroughの豪邸に住んでいました。裏庭には、本格的な大きな日本式の庭園がありました。日本から、有名な88歳の庭園デザインナーの先生を呼んで来て池を作り、でっかい鯉がたくさん泳いでいました。でっかい石も日本から持ってきました。竹藪があって、そこで剣術の試し切り用の練習もしていました。桑港剣術道場にも、かなりの青竹を切って持ち帰りました。
社長の隣の家には、有名な映画俳優で歌手のビング・クロスビーさんが住んでいました。娘さんも映画俳優ですごい美人です。何回か会い、ギターを弾いて歌ってあげると、実に喜んでくれました。社長宅の裏には、ドールバナナ会社の副社長が大家族と一緒に住んでいました。息子のブルースジュニアは弁護士で、私の教える日本の武術に興味を持っていました。手裏剣術を見せると、教えてくれというので、しばらくの間指導していました。社長には、娘さんが二人、息子さんが一人いました。奥さんは大学の先生でした。週末は、三人の女性に指圧と柔軟体操を教えていました。息子さんは、拳銃、ライフル、日本刀が大好きで、空手術と剣術を教えていました。今SFPDでシェリフをしています。二人の娘さんは、イタリア人と結婚して、イタリアに住んでいます。番犬として、アフリカからやってきたロデジアンリッジバックのオスとメスが裏庭にいました。私は、この二頭の犬に初対面ですぐに慣れてしまったので、社長の家族のみんながびっくりしました。チャイナタウンに住む奥さんのお兄さんは、えさを二匹の犬にあげている時に両手を噛まれてしまいました。犬達は、私にいつもチューをしてくれました。私の顔と手をメチャクチャ舐めるのです。
1979年の夏のある日の午後に社長の家に行くと、US Senatorの松永氏がいました。お話をすると、松永先生はすごく日本語がうまかったです。社長はUS Senatorの井上さんとも友達です。
社長はハワイ出身です。1950年の終わりごろ、社長は日本に駐留していた米軍の将校として勤務をしていて、横浜の山手に住んでいたそうです。その時の写真を見せてくれました。US Armyの大尉でした。社長は三回程、ロータリークラブでの講義を頼まれたので、私はお抱え運転手として社長を高級車の後ろに乗せてモントレーカーメルに運転して行ったことがあります。でかいアメ車のキャデラックか、4ドアのダイムラーベンツを運転しました。社長にも、450 Sutter Streetの24階のオフィスで、健康維持の為の指圧をしてあげていました。指圧の後の夕食はいつも決まっていて、ジョー石崎さん経営の大和レストランに連れて行かれました。
ジョーさんは戦時中、有名な442二世部隊の兵士としてイタリアに駐屯していました。戦利品として、ドイツのルーガー自動拳銃をドイツ兵から奪い取ったそうでいつも自慢していました。ジョーさんの日本食レストランは、サンフランシスコチャイナタウンの入り口近くのカリフォルニア街とグラント街の交差したところにありました。天皇陛下もお食事をしたことのある『天下の大和』と呼ばれる日本食レストランです。畳の部屋がありました。
社長の家で週末に指圧、柔軟体操を指導した後は、家族全員と一緒に夕食です。キージュンという名の高級中華料理店へよく連れて行ってもらいました。私をいつも優遇してくれて、家族ぐるみの付き合いをしてくれました。社長の家族の皆様の親切と恩は一生涯忘れません。感謝致します。
ゲイルさん
1978年の6月に高校を卒業して、すぐにサンブルーノのメインオフィスでデンタルアシスタントとして勤務し始めました。プラチナブロンドの美人です。ハリウッド女優のバーバラ・イーデンさんにそっくりでした。
ゲイルさんは、不良のボーイフレンドに悩まされていました。相談を持ちかけられて、兄貴の立場で話を聞いてあげました。ゲイルさんは、パシフィカ市に住んでいたので、彼女と海辺で話したことが何回かありました。一度デートに誘ったのに来なかったので、何気なく聞いてみました。不良のボーイフレンドとまた寄りを戻そうとしたらしく、しばらくは連絡せず放ってって置いてあげました。会社では顔を合わせていましたが、外出はしばらく控えて一緒にしませんでした。しばらくして、不良のボーイフレンドと完全に別れたので、彼女と親密なお付き合いをさせていただきました。でも、デート中はいつも人目を気にしているみたいでした。彼女との親密な交際は、会社の誰も知りませんでした。
でも、一度だけ発覚してしまったことがあります。同僚のテレサがゲイルさんに変な質問をいきなりした時でした。「貴方は本当にブロンドなの?」私は「はい、確かにそうです」と言ってしまいました。それを聞いたテレサさんは、うなずいてから苦笑いです。でも、周りには私たち三人以外には誰もいなかったので、三人の秘密ということになりました。しばらくゲイルさんと交際が続きましたが、彼女はモデスト市に引越しました。風のうわさで、彼女は23歳頃に結婚したそうです。旦那の名前はダスティンです。今でも二人の幸せを、私は祈ってい ます。
リサさん
1986年にサンブルーノのメインオフィスでレセプショニストとして勤務し始めました。イタリア系アメリカ人で、ブルネットのグラマーなものすごい美人です。彼女には旦那さんがすでにいました。私は、彼女の綺麗な顔が大好きで、いつも美人さんとかドリームガールさんとか言ったりして、わくわくし、うきうきもしていました。もちろん、リサさんは私にガールフレンドがいたことを知っていました。会社でパーティーがあると、いつも彼女の隣にすわっていました。
リサさんはいつも頭痛で悩まされていました。その理由は、彼女の胸が非常に大きかったからです。私は、指圧を職業として飯を食っていたので、すぐに判りました。彼女の首、腕、肩を指圧でほぐしてあげました。頭痛に効くつぼを三箇所押し続けて、二週間位で頭痛はなくなりました。でも、しばらくは朝の5分間位の指圧をサンブルーノのメインオフィスで続けていました。彼女が好きだったからです。他の数人の女性社員から嫉妬に満ちた言葉でいつも問われます。「どうしてリサだけが、只の指圧を受けられるのか?」私は、何も言わず笑って受け流していました。
1989年の10月に武術のデモのため、イタリアに遠征旅行に行きました。帰りのお土産を買いました。フランス製の香水のシャネルの5番です。2瓶買いました。一つは、いとしのクララさんの為にです。もう一つはリサさんの為にです。リサさんにシャネルの5番の香水をプレゼントした後、会社の同僚の女性の目がメチャ怖いのに気付きました。何人かは、馬鹿なことを言います。「ハルさんは、リサのでかい胸が好きなので特別待遇をしているのだ」と申すのです。私も今回は少しどぎつく言ってやりました。「あんた達も、エクササイズとか何か特殊な体操をしてその貧乳をどうにかしろ。そして、その貧相な胸が大きくなったら、いつでも只の指圧を喜んでしてやる」と強く言ってやったのです。その後は、うわさなどが少しおさまりましたが、私もちょっと反省を致しました。女の大体がアホだから、特別な一人の女性を褒めたり持ち上げると、機嫌が悪くなりがむしゃらに怒りだすのです。でも何人か、理解があり信用できる同僚の女性達は私のことを解ってくれていました。私はリサさんのフレンドリーな性格が第一番目に好きだから、よしなに致したんですよと言いました。彼女の胸の大きいのはすごく目立ちますが、 あまり関係がないんです。リサさんと会社以外の場所で会ったことは一度もありませんでした。リサさんは三年くらい勤務して退職しました。会社の女性の一人が、1995年にリサさんとタンフォランのショッピングセンターでばったり会った時、彼女がすごい肥満体だったそうです。それを聞いて私のリサさんへのイメージがぶち壊れたのです。がっかりして打ちひしがれました。
バーバラさん
バーバラさんと会ったのは1984年頃です。彼女は社長のガールフレンドでした。二人の出会った場所はFairmont Hotelのバーです。金髪で胸がどでかい女性がバーに座っていたので、社長はひと目惚れしてメロメロになり、バーバラさんと交際を始めました。
社長の秘書として会社から給料をもらっていました。バーリンゲームに新しいオフィスができて、社長と四人の秘書と一緒にバーバラさんは秘書兼ガールフレンドとして働いていました。そのオフィスに行くことのできる社員は限られていました。社長には、他に3人のガールフレンドがいて、私はその女性達に会ったことが何回かありました。3人の女性全員の胸が異常にでかかったです。社長は、3人全員に全く同じ香水をプレゼントしていました。同じ匂いです。3人共にハニーと呼ばれていました。これで名前の呼び違えは絶対に起こりません。
私はバーバラさんのお抱え運転手になりました。彼女の住むアパートから、社長宅への送迎をおおせつかっていました。たまにPier 39やユニオンスクエア、SFダウンタウンなどでバーバラさんを降ろしたこともあります。私たちはある日、親しい友達になっていました。彼女には悲しい過去がありました。8歳の時、実の父親に犯されたそうです。13歳で売春婦になったそうです。1000人以上の男性と性的交渉を持ったと言っていました。私が彼女と会った時、年は二つ上でした。バーバラさんと、ぶっちゃけた話を送迎の運転中にたくさん致しました。彼女は、私の性教育の先生になってくれました。種々の質問をしてすごく勉強になりました。だんだん彼女を友達として好きになりました。なぜか、彼女を尊敬し始めました。
ものすごくどでかい胸をしていたので頭痛にも悩まされていました。時間が許す限り、私の得意の指圧をしていましたが、アル中だったので頭痛は完全には取り除けません。彼女の片胸は、私の頭のサイズよりも二割位大きかったです。彼女とは一度も男女の関係に発展したことはありませんでした。一度だけ、胸に触れさせていただいたことがありました。すごい高級品でした。本物です。シリコン入りではないのです。しかし、実のところ持て余す程に大きく、どうしたら良いのか分からないんです。乳房の張り、大きさ、形状等がすばらしく、乳首の色もピンク色でした。1989年の10月に私がイタリアから帰ると、彼女は会社にいませんでした。ちょっとさびしかったです。1992年頃若くして他界したそうです。
テレサさん
ちょっと太めのデンタルアシスタントでした。1980年頃から入社していました。彼女とは、なぜかウマが合いました。実に陽気で面白かったです。私の英語も結構、面倒見てみてくれました。私の数字の「40」のスペリングが、FortyかFourtyかはっきりしなかった時に、Fortyと親切に教えてくれました。いろんなAmerican Jokesを習いました。やっぱりNative Speakerはすばらしいですね。会社のパーティーでは、酔っ払うと彼女が一番ハメをはずしていました。酔うと、どぎつくシンドクなります。ものすごくエロくなります。必ずバナナイーティングコンテストが始まります。他の姉ちゃん達も、つられてバナナイーティングコンテストに参加です。これは、どぎつすぎるのでちょっと申しがたいです。1988年頃に、テレサさんにフランス人のボーイフレンドができました。彼女の住んでいたアパートのテナントだったそうです。名前はアントワンと言っていました。テレサさんは今、サンフランシスコの北方のペタルマ市に住んでいて、アントワンの友達と結婚しています。
上司のウォングさん
1977年の7月に仕事の面接の時に始めて会いました。社長の奥さんとウォングさんの奥さんが実の姉妹でした。面接の後、すぐに義理の兄さんと相談して私を雇ってくれました。ウォングさんはその頃、40歳ぐらいで社長は50歳でした。歯科技工士の仕事の全てを教えてくれました。
私が3ヶ月で仕事を覚えると実にびっくりしていました。以前に雇った人たちは仕事を覚えるのが遅く、一年しても仕事ができないので会社のために全然、役に立たなかったそうです。口答えはするし、態度もひどかったそうでした。私は、実に義兄弟である社長と上司に気に入られ、一生懸命に会社のために働きました。ウォングさんは米国生まれの中国人でいろんなことを私に教えてくれました。結構ぶっちゃけたことも、面白おかしく話していました。社長の秘密も私に話してくれました。
1980年頃、気の良いおとなしいウォングさんにガールフレンドができました。24階のオフィスの受付で働くパートタイムのレセプショニスト見習いの若い女性でした。実にやばかったです。年が17歳で高校生でした。私は、彼女が18歳になるまで、絶対に性交渉を持ってはいけないと助言してあげました。米国の法律は一方的に未成年の味方です。おっさんの味方ではありません。私は、会社の上司に監獄に入って、オレンジ色のユニフォームを着てほしくなかったのです。ウォングさんも私の言うことを聞いてくれました。
6ヵ月後に、3人でアンジーさんの18歳の誕生日を祝いました。私のガールフレンドと4人でダブルデートしたこともありました。その頃私は、3人の子持ちの28歳の女性としばらく付き合っていました。会社に入る少し前は、違う4人の子持ちの29歳の女性と付き合っていたことを話すと、ウォングさんは笑っていました。私と付き合っていた二人のガールフレンドは、共にラテン系アメリカ人でエギゾチックな顔をしていました。でも、本当に結婚して生涯一緒に暮らしたいと思った女性は、その時の時点ではまだ見つかっていませんと言いました。その時が来たら、社長かウォングさんが仲人になってくれると言ってくれました。
ウォングさんは、便秘と痔で悩んでいました。私の親父もそうで、痔の原因は酒の飲み過ぎです。便秘は指圧である程度、体の調子を整えてあげました。一緒にチャイナタウンに参ってランチタイムに野菜をたくさん食べることを薦めました。便秘はすぐに改善され、体調が良くなりました。痔は酒をやめない限り絶対に無理です。若い女性と付き合っていたウォングさんは、今度は違う悩みに遭遇です。元気がなくなって、彼女を性的に満足させられないのだと言うのです。私は、赤マムシ酒、沖縄のハブ酒とコリアン人参の話をしてあげました。それから、秘伝を伝授してあげました。しばらくして、大喜びのウォングさんです。夕食をご馳走してくれました。1990年にウォングさんはアンジーさんと別れました。奥さんに発覚したと言っていました。追求が猛烈に激しくなったそうです。いつも、愚痴を言って泣いていました。そして、飲む酒の量が多くなりました。いつもヤケクソでした。株にも失敗して大損をしたのもその頃です。上司のウォングさんには1999年の退職の日までお世話になったのです。
ユジーン君
ウォングさんの息子で、私の働く19階のラボラトリーでパートタイムとして働いていました。歳は17歳でした。2年くらい働いて1979年のクリスマス頃に会社を辞め、大学に通い始めました。彼の仕事の受け持ちは、24階から運ばれて来た患者さんの歯型に、石膏を流し込んで実物サイズの歯と歯ぐきのモデルを作る役目でした。仕事中は、いつもジョージ・ベンソンの音楽を聴いていました。ランチタイムは一緒にチャイナタウンに行ったりしていました。毎月の会社のパーティーでは、いつも女性の社員からおちょくられていました。飲めない酒を飲まされたり、ふんだりけったりです。でも優しい思いやりのある青年でした。ガールフレンドができないので、父親のウォングさんがいつも心配していました。跡継ぎは大丈夫かと気にするウォングさんです。私にそれとなく、ホモであるか否かを探ってくれと申すのです。いろいろ吟味した結果、ホモではありませんでしたと報告致しました。1979年に、父親のウォングさんが露した、にっこりしたすがすがしい顔を私は今でも忘れられません。
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実物大の歯型の石膏には実にお世話になりました。歯型を見ただけで、それが白人、黒人、東洋人の誰だかが判断できるようになりました。女性か男性なのかも見分けられます。1979年の初め頃に米国政府から我矯正歯科医師株式会社に依頼がありました。1978年の11月8日に起こった、900人以上の死者を出した、グヤナのジョーンズタウンでのオカルト宗教の大量自殺事件です。死者の中に、我が会社の患者が何人かいて、歯型で身元を確認したのです。いやな仕事でした。
22年間の会社勤務で、いろいろなアメリカ人女性に会いました。若い女性もいれば、結構歳を食った女性もいました。若い女性は言うことが大体決まっていました。金持ちの旦那さんがほしいのです。金持ちの男性と結婚したいのです。私は、彼女たちにいつも全く同じの質問をしていました。「金持ちの奥さんになれるような資格を持っていますか?」「女としての基本的な技術の炊事、洗濯、料理はできますか?」「男性を持ち上げ、援助して行けますか?」「肉体的だけではなく、精神的な援助もできますか?」もちろん、会社で働く9割9分9厘の若い女性に、金持ちの男性と結婚できる資格はありませんでした。努力をしないで楽に生きたい女が多過ぎるのです。自分の身のほどを知らない女性達です。悲しいことです。
私が退職したすぐ後、一の谷先生が2人の矯正歯科医師に会社を売りました。一人は香港から来た中国人男性でシェン先生です。もう一人は、デンマークの女性でトーマー先生です。二人は、私が働き始めた頃は、矯正歯科医師になる為の学校へ通っていたStudent Doctorsでした。会社の名前だけが変わり、今まで働いていた会社員はそのまま仕事を続行することになったそうです。
2011年の1月末、昔の上司のウォングさんからE-mailで連絡がありました。来たる2月の某日に、元矯正歯科医師株式会社の会社員達だけでの夕食会を催したいという内容でした。私はどんなことがあっても参加したいと言いました。ついにその日が来ました。2011年2月11日、金曜日の夕方5時にCalifornia StreetとHyde Streetの交差した近くのバーで待ち合わせです。私がそこへ時間通りに参ると、ウォングさんと元デンタルアシスタントのSupervisorシャロンさんが待っていました。
シャロンさんとは、退職後にCow Palaceのガンショウで年に3回ぐらいは旦那さんと一緒に来ていたので会っていました。Mission Streetでも、何回か買い物をしていたシャロンさんと会ったこともあります。シャロンさんの旦那さんが、Cow Palace のガンショウに持参した鍔を鑑定したことがあります。しばらくして、テレサさんとオードリーさんがやって来ました。二人共ペタルマ市に住んでいて、近所付き合いをしているそうです。昔私が大好きで飲んでいたテキーラサンライズをオーダーしてくれました。昔の話にメチャクチャ花が咲きました。一番若いオードリーさんは55歳でした。彼女は、昔はすごく痩せていて私の好みのタイプではなかったですが、今は少し肉付きが良くなっていて見栄えが良かったです。テレサさんは相変わらず、オモロイ冗談の連発でした。皆さん酔いもまわり、バーの隣の中華料理店に突撃です。赤ワインがたくさん出て、笑いが絶えません。海産物、フカひれスープも混ざった9コースの豪華な食事が出ました。昔を思い出す私達でした。次回は社長も招待して夕食会を催す約束をして帰宅しました。