我が母、清子さんから聞いた話
清子さんは私の母です。大正13年の4月24日の生まれ。本当は栃木県で誕生致しましたが、本籍は東京の中延になっています。幼少の頃、尋常小学校に通っている時は、徒競走でいつも一等賞をとっていたそうです。勉強がものすごくできたそうです。自慢が大好きです。戦争で東京の中延の家が焼けたことを涙を流しながら語りました。B-29のどでかい爆撃機が飛んで来たのをまだ良く覚えているそうです。グラマンF6Fヘルキャットの艦載機が中延の家の近くに落ちたとき、近所の人びとがアメリカ人のパイロットを機内より引きずり出してから、メチャクチャに袋叩きにしたそうです。戦争は険しいですね。
私が小学校三年生の時、清子さんは妹と弟と私の三人を水泳の講習会に通わせるために、東京目黒区の緑ヶ丘のプールへ連れて行ってくれました。鎌倉にある江ノ島海岸にも連れて行ってくれました。中学一年生の時は一緒にバレーボールをしたこともあります。父はあんまり家にいなかったので、お袋とすごす時間がたくさんありました。大工道具の使い方を教えてくれたのも清子さんが最初の人でした。私は高校一年生から三年生まで神奈川県の鎌倉市近辺でサーフィンをやって遊んでいました。浜辺でギターも弾いていました。軽自動車も運転していました。そうです。本田の360ccのチンケな車です。雪がひどかった夜中の二時頃に家に帰ったとき、清子さんは泣いていました。そのことを私はすっかり忘れていましたが、清子さんが1980年代の中頃、頻繁に父と訪米していた時に話してくれました。過ぎた昔のことなのに、その話をして清子さんは泣いたので、私は便所に隠れながら笑ってしまいました。
清子さんの兄重政さんは、戦争中に日本帝国陸軍の隼とゼロ戦の修理をしていた技術者でした。ボルネオの方面に勤務していたそうで、陸軍中尉です。日本で大学を出ている人は、軍隊に入隊すると直ぐに少尉の称号をもらえると聞きました。修理工場の現場近くで、原住民の人々と仲良くなって、戦争中なのにドンチャン騒ぎをしてとても楽しかったそうです。変な南方の病気にかかって、子供が一生涯授からなかったと言っていました。重政おじさんは、東京の中延の家で現在、折り紙の先生をしているそうです。手を使う仕事は脳の活性化に良いと聞いています。若返りにも良いそうです。ボケとうつ病にも良いそうです。
清子さんの弟光隆さんは神風のパイロットでした。昭和20年の8月16日に沖縄へ飛び去って、母国の為に爆弾を積んだ飛行機と一緒に自爆する予定でしたが、戦争が15日に終わったので命拾いをしたそうです。昭和20年の8月の18日に、清子さんが東京の中延の家の庭で掃除をしていると、遠くの方から「姉ちゃん」と呼ぶ声がして、死んだ光隆さんが地獄から清子さんを迎えに来たと思ったそうです。話を聞くと、8月の13日と14日はすごいご馳走にありついたそうで、ドンチャン騒ぎも酒盛りもあったそうです。綺麗なネエちゃんも抱いたそうです。光隆さんは三越の重役として勤務していたそうですが、2009年に他界致しました。
私が中学校に通っていた頃、清子さんは私が生まれた時の話をしてくれました。昭和26年の12月25日に陣痛がはじまり、神田の神保町にある産婦人科の神保院に家から歩いて行ったそうです。陣痛が治まり、直ぐに神保院から歩いて家に帰ったそうです。すると、再び陣痛が12月31日の夕方に始まり、また神保院へ歩いて行ったそうです。夜中を過ぎて、次の日の朝4時に私が生まれたそうです。最初は足から出たので、先生が私の足を清子さんの母体に押し込みました。次に、お尻から出てきたそうです。もう一度押し込んだら今度は多分母体が危ないと判断した先生は、小さな海老のような形の私をお尻の横を摘まむようにおさえてから引っ張り出しました。全然泣かないので、逆さ吊りにしてお尻を軽くたたくとやっと泣いたそうです。昭和27年1月1日の早朝4時の生まれです。
私がヨチヨチ歩きの頃、清子さんは週に三日は靖国神社に連れて行ってくれて、パンを撒いたり乾燥したご飯を撒いたりして、鳩にえさをやっていました。たくさん集まった鳩の所へ私がシャシャリ出て、鳩を追いかけて、飛び散らかすそうです。飛ばす回数も、十回ぐらいは常時行っていたそうです。私には覚えがありません。古き良き日を思い出すのは脳の活性化によろしいそうです。
2010年の4月18日に清子さんは永眠致しました。さようなら。
私が小学校三年生の時、清子さんは妹と弟と私の三人を水泳の講習会に通わせるために、東京目黒区の緑ヶ丘のプールへ連れて行ってくれました。鎌倉にある江ノ島海岸にも連れて行ってくれました。中学一年生の時は一緒にバレーボールをしたこともあります。父はあんまり家にいなかったので、お袋とすごす時間がたくさんありました。大工道具の使い方を教えてくれたのも清子さんが最初の人でした。私は高校一年生から三年生まで神奈川県の鎌倉市近辺でサーフィンをやって遊んでいました。浜辺でギターも弾いていました。軽自動車も運転していました。そうです。本田の360ccのチンケな車です。雪がひどかった夜中の二時頃に家に帰ったとき、清子さんは泣いていました。そのことを私はすっかり忘れていましたが、清子さんが1980年代の中頃、頻繁に父と訪米していた時に話してくれました。過ぎた昔のことなのに、その話をして清子さんは泣いたので、私は便所に隠れながら笑ってしまいました。
清子さんの兄重政さんは、戦争中に日本帝国陸軍の隼とゼロ戦の修理をしていた技術者でした。ボルネオの方面に勤務していたそうで、陸軍中尉です。日本で大学を出ている人は、軍隊に入隊すると直ぐに少尉の称号をもらえると聞きました。修理工場の現場近くで、原住民の人々と仲良くなって、戦争中なのにドンチャン騒ぎをしてとても楽しかったそうです。変な南方の病気にかかって、子供が一生涯授からなかったと言っていました。重政おじさんは、東京の中延の家で現在、折り紙の先生をしているそうです。手を使う仕事は脳の活性化に良いと聞いています。若返りにも良いそうです。ボケとうつ病にも良いそうです。
清子さんの弟光隆さんは神風のパイロットでした。昭和20年の8月16日に沖縄へ飛び去って、母国の為に爆弾を積んだ飛行機と一緒に自爆する予定でしたが、戦争が15日に終わったので命拾いをしたそうです。昭和20年の8月の18日に、清子さんが東京の中延の家の庭で掃除をしていると、遠くの方から「姉ちゃん」と呼ぶ声がして、死んだ光隆さんが地獄から清子さんを迎えに来たと思ったそうです。話を聞くと、8月の13日と14日はすごいご馳走にありついたそうで、ドンチャン騒ぎも酒盛りもあったそうです。綺麗なネエちゃんも抱いたそうです。光隆さんは三越の重役として勤務していたそうですが、2009年に他界致しました。
私が中学校に通っていた頃、清子さんは私が生まれた時の話をしてくれました。昭和26年の12月25日に陣痛がはじまり、神田の神保町にある産婦人科の神保院に家から歩いて行ったそうです。陣痛が治まり、直ぐに神保院から歩いて家に帰ったそうです。すると、再び陣痛が12月31日の夕方に始まり、また神保院へ歩いて行ったそうです。夜中を過ぎて、次の日の朝4時に私が生まれたそうです。最初は足から出たので、先生が私の足を清子さんの母体に押し込みました。次に、お尻から出てきたそうです。もう一度押し込んだら今度は多分母体が危ないと判断した先生は、小さな海老のような形の私をお尻の横を摘まむようにおさえてから引っ張り出しました。全然泣かないので、逆さ吊りにしてお尻を軽くたたくとやっと泣いたそうです。昭和27年1月1日の早朝4時の生まれです。
私がヨチヨチ歩きの頃、清子さんは週に三日は靖国神社に連れて行ってくれて、パンを撒いたり乾燥したご飯を撒いたりして、鳩にえさをやっていました。たくさん集まった鳩の所へ私がシャシャリ出て、鳩を追いかけて、飛び散らかすそうです。飛ばす回数も、十回ぐらいは常時行っていたそうです。私には覚えがありません。古き良き日を思い出すのは脳の活性化によろしいそうです。
2010年の4月18日に清子さんは永眠致しました。さようなら。