武術家と宗教の関係
私は単なる武術家なので、日本での修業中は剣術と空手の先生方々にいろいろの武術と武道の関連分野を教えられました。その中で、鍛錬仲間、友人、家族や巷の人びとに対する礼儀、忠義、思いやりなどの精神的な対応のことも伝授されました。そして、3項目に関しての加担は、武道の鍛錬に妨げになると先生方々から力説されました。一応、その教えを守っています。
3項目とは「人種問題」、「宗教」そして「政治一般論」です。しかしながら、最近はこの第3項目を無視していては、『アメリカ生活はできない』と言うのが、私の究極の考えとなりました。なるべく、これらの問題に面しないようにしています。しかし、毎日の剣術の練習の前に、儀式的な訓を唱えています。『刀と上座に礼』です。上座は、神座と解釈する武道家もいます。これは、日本古来の神道の教えです。チラっと矛盾が見えます。
一日二回、私は2本か3本の線香をたいて、両親の仏壇に手を合わせて祈っています。家族、生徒、友達の安全、健康、長寿を望み願っています。自分の知っている知識は、身近にいる多くの皆さんと『分かち合う約束』を両親にしています。この祈りは、私の個人的な宗教心から発しています。 仏壇の保持は、父母が死んでいちおう私は長男なので日本に住む妹とテキサスに住む弟に押し付けられたような形になりました。2013年に、日本と米国の両方で、どえらく長い手続を終了して仏壇そのものが日本より送られて来ました。現在、家の一部を仏壇所にしています。親父とお袋の灰も仏壇の隣に安置してあります。2人は、大きなツボの中に入っています。私の心の支えです。
アメリカ生活のはじめの頃は、ある宗教家の人々と付き合っていました。ある面、英語を話したい環境をつくりたかった理由がありました。しかし、彼等が発行するパンフレット的な読み物の中に、ある記事が記載されていて、実に幼稚な解釈がなされていました。武道とか武術は、『暴力である』と、はっきりと言い切っていました。1972年の頃は道場もなく、生徒なしで毎日の練習に励んでいました。私の毎日の練習には、健康と護身の為の意味合いが過大にあったのです。武道に対する彼等宗教団体の一方的な、そして、過ち的な解釈に実に腹が立ち、その宗教家と宗教団体との付 き合いを断ち切り、今日に至っています。宗教なしでも、完璧に一人で生きていかれる私です。無しのほうが気が楽です。
1973年の3月に自分の道場を開門し、独裁者になり、多額の金銭を手に入れました。そして、1978年には会社勤めも開始して、さらにより多くの金銭を手に入れました。日本刀も買い入れ、家も購入し、一人で楽しく毎日を暮らしていました。週末は、なるべく家で過ごしていました。しかし、玄関のドアベルが鳴り、訳のわからん宗教の介入を促す人々が登場です。スンバらしいイデタチで参上です。実に見映えの良いバリバリのスーツを着て、リクルートです。しかし、何時も介入をお断り致しました。他にもいろんな形で介入がありました。町角で叫んでいる宗教の伝道者がいました。これも、店の呼び込みの様です。全てが『お布施目当て』と私は解釈致しました。
1980年の初頭に、どえらいニュースで話題になった悪い宗教団体がありました。集団自殺の強要を会員に致しました。多数の人間が死にました。その様な事件は一つや二つではありません。自分を『貴方の最愛の友達』と称する、ある宣教師がいました。言っていることと行動が全然違います。矛盾しています。何時も、つじつまの合わない司教さんにもお目通り致しました。実に商売熱心な宗教団体も多々見かけました。お布施だけでは物足りず、アパート経営しています。どうも解りません。『税金払っているのかい? 絶対に脱税しているでしょう?』とお尋ねしたいです。地下鉄の電車内に猛毒をまいた宗教団体を覚えていますか? 私は、何時もお布施に対する疑惑が多々あります。金の延べ棒を蓄えている宗教団体が、ヨーロッパの各地に存在しています。その秘蔵の金塊を売って、貧しい人びとに食べ物を買ってあげたらどうでしょうか? 宗教団体の疑惑と疑問が絶えず有り過ぎる今日この頃です。
1990年の初め頃、日本刀に関与する刀鍛冶の弟子になりました。その師匠が言ったことに、私は実に共感してしまいました。師匠が言った御言葉は、『宗教とは自分を見失った人びとが通う場所を提供する団体です 』と、はっきしとおっしゃいました。私の知っている引退したTさんは、教会に何時もナンパ目的で足を運んでいました。かわいそうな人だと私は思います。最終的に奥さんと離婚しました。奥さんに捨てられました。最近は、何時も酒びたりです。電話すると、何時も泣き寝入りをしています。クダラン愚痴を、何時も聞かされます。奥さんに捨てられる前は、何時も脅かされて罵られていました。あんたと結婚してやった理由とは『単に、同じ教会に行っていたからです』と、はっきり言われたそうです。『ナンテ、可哀そうな人なんだろう』と、私は内心に思いました。しかし、事実関係を問いただすと『奥さんにナイショで浮気した』ということだそうです。地獄というのが存在するのなら、『フルーコースを体験しろ!』と言ってあげました。懺悔のシステムもなんだか解りません。『てめえの都合が良いように、全てが解釈されている』と思います。悪い奴等が懺悔した後に、『本当に許されて良いのかな?』と、疑問が出てまいります。私の率直な意見では、銃殺刑、獄門、打ち首です。薄っぺらな誓いの言葉を言った人は、死ねば良いのです。
1980年頃、あるフィリピン人の宗教団体の存在を友人から聞きました。その団体は50人くらいの会員が常時いて活動をしているそうです。そして、年間に25ドルの資金があれば、教会の運営を維持していかれるそうです。一瞬『偉いな』と思い、25ドルを差し上げたくなりました。しかし、そうしたら、他の宗教団体にも同じことをしなくてはいけないような気がしてまいりました。結局、『あげず終い』でした。
最近、道場で剣術の稽古がほとんど毎日です。『刀と上座に礼』と唱えています。『上座を神座と解釈したほうが良いのでしょうか?』と迷う私です。
3項目とは「人種問題」、「宗教」そして「政治一般論」です。しかしながら、最近はこの第3項目を無視していては、『アメリカ生活はできない』と言うのが、私の究極の考えとなりました。なるべく、これらの問題に面しないようにしています。しかし、毎日の剣術の練習の前に、儀式的な訓を唱えています。『刀と上座に礼』です。上座は、神座と解釈する武道家もいます。これは、日本古来の神道の教えです。チラっと矛盾が見えます。
一日二回、私は2本か3本の線香をたいて、両親の仏壇に手を合わせて祈っています。家族、生徒、友達の安全、健康、長寿を望み願っています。自分の知っている知識は、身近にいる多くの皆さんと『分かち合う約束』を両親にしています。この祈りは、私の個人的な宗教心から発しています。 仏壇の保持は、父母が死んでいちおう私は長男なので日本に住む妹とテキサスに住む弟に押し付けられたような形になりました。2013年に、日本と米国の両方で、どえらく長い手続を終了して仏壇そのものが日本より送られて来ました。現在、家の一部を仏壇所にしています。親父とお袋の灰も仏壇の隣に安置してあります。2人は、大きなツボの中に入っています。私の心の支えです。
アメリカ生活のはじめの頃は、ある宗教家の人々と付き合っていました。ある面、英語を話したい環境をつくりたかった理由がありました。しかし、彼等が発行するパンフレット的な読み物の中に、ある記事が記載されていて、実に幼稚な解釈がなされていました。武道とか武術は、『暴力である』と、はっきりと言い切っていました。1972年の頃は道場もなく、生徒なしで毎日の練習に励んでいました。私の毎日の練習には、健康と護身の為の意味合いが過大にあったのです。武道に対する彼等宗教団体の一方的な、そして、過ち的な解釈に実に腹が立ち、その宗教家と宗教団体との付 き合いを断ち切り、今日に至っています。宗教なしでも、完璧に一人で生きていかれる私です。無しのほうが気が楽です。
1973年の3月に自分の道場を開門し、独裁者になり、多額の金銭を手に入れました。そして、1978年には会社勤めも開始して、さらにより多くの金銭を手に入れました。日本刀も買い入れ、家も購入し、一人で楽しく毎日を暮らしていました。週末は、なるべく家で過ごしていました。しかし、玄関のドアベルが鳴り、訳のわからん宗教の介入を促す人々が登場です。スンバらしいイデタチで参上です。実に見映えの良いバリバリのスーツを着て、リクルートです。しかし、何時も介入をお断り致しました。他にもいろんな形で介入がありました。町角で叫んでいる宗教の伝道者がいました。これも、店の呼び込みの様です。全てが『お布施目当て』と私は解釈致しました。
1980年の初頭に、どえらいニュースで話題になった悪い宗教団体がありました。集団自殺の強要を会員に致しました。多数の人間が死にました。その様な事件は一つや二つではありません。自分を『貴方の最愛の友達』と称する、ある宣教師がいました。言っていることと行動が全然違います。矛盾しています。何時も、つじつまの合わない司教さんにもお目通り致しました。実に商売熱心な宗教団体も多々見かけました。お布施だけでは物足りず、アパート経営しています。どうも解りません。『税金払っているのかい? 絶対に脱税しているでしょう?』とお尋ねしたいです。地下鉄の電車内に猛毒をまいた宗教団体を覚えていますか? 私は、何時もお布施に対する疑惑が多々あります。金の延べ棒を蓄えている宗教団体が、ヨーロッパの各地に存在しています。その秘蔵の金塊を売って、貧しい人びとに食べ物を買ってあげたらどうでしょうか? 宗教団体の疑惑と疑問が絶えず有り過ぎる今日この頃です。
1990年の初め頃、日本刀に関与する刀鍛冶の弟子になりました。その師匠が言ったことに、私は実に共感してしまいました。師匠が言った御言葉は、『宗教とは自分を見失った人びとが通う場所を提供する団体です 』と、はっきしとおっしゃいました。私の知っている引退したTさんは、教会に何時もナンパ目的で足を運んでいました。かわいそうな人だと私は思います。最終的に奥さんと離婚しました。奥さんに捨てられました。最近は、何時も酒びたりです。電話すると、何時も泣き寝入りをしています。クダラン愚痴を、何時も聞かされます。奥さんに捨てられる前は、何時も脅かされて罵られていました。あんたと結婚してやった理由とは『単に、同じ教会に行っていたからです』と、はっきり言われたそうです。『ナンテ、可哀そうな人なんだろう』と、私は内心に思いました。しかし、事実関係を問いただすと『奥さんにナイショで浮気した』ということだそうです。地獄というのが存在するのなら、『フルーコースを体験しろ!』と言ってあげました。懺悔のシステムもなんだか解りません。『てめえの都合が良いように、全てが解釈されている』と思います。悪い奴等が懺悔した後に、『本当に許されて良いのかな?』と、疑問が出てまいります。私の率直な意見では、銃殺刑、獄門、打ち首です。薄っぺらな誓いの言葉を言った人は、死ねば良いのです。
1980年頃、あるフィリピン人の宗教団体の存在を友人から聞きました。その団体は50人くらいの会員が常時いて活動をしているそうです。そして、年間に25ドルの資金があれば、教会の運営を維持していかれるそうです。一瞬『偉いな』と思い、25ドルを差し上げたくなりました。しかし、そうしたら、他の宗教団体にも同じことをしなくてはいけないような気がしてまいりました。結局、『あげず終い』でした。
最近、道場で剣術の稽古がほとんど毎日です。『刀と上座に礼』と唱えています。『上座を神座と解釈したほうが良いのでしょうか?』と迷う私です。