2005年4月12日(火)
刀のはなし27
備前伝
現在の岡山県に位置する備前国は、平安時代から鉄の産地としてよく知られています。平安時代後期になって刀工の友成と正恒が出現して以来、吉井川周辺に鍛冶群等が居住し、室町末期の天正19年の吉井川大洪水によって備前鍛冶が壊滅するまで、日本刀の生産でめざましい活躍があり、多数の名刀を世に送り出しました。
現存する日本刀の7割が備前鍛冶によって製作されました。鎌倉時代初期に後鳥羽院は、月番を定めて諸国の刀工に太刀を製作させて菊の御紋を刻み、側近の武士や公家たちに与えて多いに士気を高めようとしました。この御番鍛冶12人の内、8人が備前刀工で、古備前鍛冶の繁栄がうかがわれます。
平安時代の備前鍛冶の太刀の体配は優雅、細身で、小切先で腰反りが高く、腰元で身幅がぐっと開いた、いわゆる踏張りのあるものです。鍛え肌は、板目が詰み、小板目が多く、細かい地景が入り、多くの太刀は淡いはっきりしない乱映りが表面に現れています。刃紋は古雅な小乱れで、自然であり、沸えがよくついています。
鎌倉時代中期の備前鍛冶の作柄は、元寇に備えて皮の鎧を断ち切るために、切先はずんぐりした猪首切先に変換されました。刃紋は丁字刃や互の目刃が主体になり、映りもはっきりしたものが現れてきます。
南北朝時代には大太刀、大薙刀が備前鍛冶により多く製作され、神社仏閣にも奉納されています。
応永時代より武士は腰に大小二振りの刀を差すようになり、応永備前物は相対に釣り合いのとれた体裁のよい姿の刀に変わり、寸法も詰まりました。戦国時代には多くの刀が備前鍛冶の手で造られました。
備前鍛冶の繁栄の理由を挙げてみます。
①良質の鉄が産出され、水質の良い豊富な水に恵まれ、鍛刀に必要な松炭が大量に入手できたこと
②気候も温暖で、吉井川の西大寺や他の港町が外国文化の接点に当たり、文化、交通、経済的に立地条件が良かったこと
③備前国は京都の政治や権力の中心よりやや離れていて盛衰の被害を直接受けなかったこと
④備前鍛冶は各時代の流行によく対応した作刀をし、波静かな瀬戸内海を利用して日本全国に刀剣の需要先を求め得ていた
古刀期だけでも2300人以上に及ぶ備前国の刀工が銘鑑に記載されています。国宝に指定された日本刀の数も他の五カ伝流派より最も多く、いかに備前鍛冶の刀工たちが技術に優れ、隆盛を極めていたかが物語っています。
備前伝
現在の岡山県に位置する備前国は、平安時代から鉄の産地としてよく知られています。平安時代後期になって刀工の友成と正恒が出現して以来、吉井川周辺に鍛冶群等が居住し、室町末期の天正19年の吉井川大洪水によって備前鍛冶が壊滅するまで、日本刀の生産でめざましい活躍があり、多数の名刀を世に送り出しました。
現存する日本刀の7割が備前鍛冶によって製作されました。鎌倉時代初期に後鳥羽院は、月番を定めて諸国の刀工に太刀を製作させて菊の御紋を刻み、側近の武士や公家たちに与えて多いに士気を高めようとしました。この御番鍛冶12人の内、8人が備前刀工で、古備前鍛冶の繁栄がうかがわれます。
平安時代の備前鍛冶の太刀の体配は優雅、細身で、小切先で腰反りが高く、腰元で身幅がぐっと開いた、いわゆる踏張りのあるものです。鍛え肌は、板目が詰み、小板目が多く、細かい地景が入り、多くの太刀は淡いはっきりしない乱映りが表面に現れています。刃紋は古雅な小乱れで、自然であり、沸えがよくついています。
鎌倉時代中期の備前鍛冶の作柄は、元寇に備えて皮の鎧を断ち切るために、切先はずんぐりした猪首切先に変換されました。刃紋は丁字刃や互の目刃が主体になり、映りもはっきりしたものが現れてきます。
南北朝時代には大太刀、大薙刀が備前鍛冶により多く製作され、神社仏閣にも奉納されています。
応永時代より武士は腰に大小二振りの刀を差すようになり、応永備前物は相対に釣り合いのとれた体裁のよい姿の刀に変わり、寸法も詰まりました。戦国時代には多くの刀が備前鍛冶の手で造られました。
備前鍛冶の繁栄の理由を挙げてみます。
①良質の鉄が産出され、水質の良い豊富な水に恵まれ、鍛刀に必要な松炭が大量に入手できたこと
②気候も温暖で、吉井川の西大寺や他の港町が外国文化の接点に当たり、文化、交通、経済的に立地条件が良かったこと
③備前国は京都の政治や権力の中心よりやや離れていて盛衰の被害を直接受けなかったこと
④備前鍛冶は各時代の流行によく対応した作刀をし、波静かな瀬戸内海を利用して日本全国に刀剣の需要先を求め得ていた
古刀期だけでも2300人以上に及ぶ備前国の刀工が銘鑑に記載されています。国宝に指定された日本刀の数も他の五カ伝流派より最も多く、いかに備前鍛冶の刀工たちが技術に優れ、隆盛を極めていたかが物語っています。