我父、宗行さん その1
親父の宗行さんは、戦時中に九州の小倉から京都に移住して、京都帝国大学へ通い、法学博士として卒業しました。更に、東京に移住して東京帝国大学へ通い、同じ分野で勉強して卒業しました。この文章を読んでいる人に嘘だと思われたくないので、証明を致します。私は、父の京都帝国大学の卒業証書を持っています。それによるとこう書かれています。
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第一六四六号 合格証書 『親父の苗字と名前』 京都大学法学部に於いて、学部所定の学士試験に、合格したことを、証明する。 昭和二十三年三月三十日 京都大学法学部長従四位勲四等龍川幸辰 京都大学法学部長の証明を、認めて合格証書を、授興する。 京都大学総長従三位勲二等工学博士鳥養利三郎
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東京帝国大学の卒業証書は腹違いの兄が持っています。そのうち、あいつの住むコロラド州デンバーの日本食レストランに参上して、分捕ってやろうと思っています。親父の形見は渡せんと怒鳴り散らしたら、金でカタをつけるつもりです。
戦後、ある生々しく悲しい理由があり、親父は夢であった東京最高裁判所の裁判官の椅子に座れなかったのです。もちろん、理由は悪事関係ではありません。
親父は変わった人でした。インテリでした。すごいケチでした。私が、金髪美人の姉ちゃんをイタリアのスポーツカーに乗せて、サンフランシスコ市内を走り廻りたい。そして、友達のみんなに見せびらかしたいという理由で車を買う金を親父にせびると、絶対につっぱねてお断りです。しかし、これから将来勉強して医者になることを決めたので、月謝、入学金、寮に入る金などに必要な経費の2500万円をくれろと言うと即座に渡してくれます。遊びはだめみたいで、学業はよろしいみたいです。でも失敗談があります。テキサス州にいる実の弟は、大学を卒業して、更にその上をいじって博士号を持っているけど、その分野で達成できず、日本の貿易会社で働いています。完全な失敗です。親父、泣け!!
親父は1960年代の中頃、少なくとも700万円くらいの価値のあるアメ車のマーキュリークーガーを乗り回していました。ガールフレンドが数人いました。車の色は水色と緑色の中間でした。私の車は、チンケなホンダ360でした。色がシンドイ深緑色でした。ロータリーエンジンの搭載されたコスモというマツダのスポーツカーを買ってくれとせがむと、だめでした。たったの120万円くらいでした。アメリカに留学すると、フォルクスワーゲンを買わせようとする親父です。1971年の秋の時点で、親父はワーゲンの新車を買ってくれました。値段は1850ドルでした。この車は、私も気に入っていました。ラジエーターがなくて、空冷エンジンです。このドイツ車の修理修繕を全部できるように研修して、ワーゲン車メカニックになったのです。正解でした。チューンアップ、ブレーキ、クラッチ関連の修理修繕の仕事も全部できます。家に今、各種フォルクスワーゲンが5台ありますが、全部自分で修理しています。オイルチェンジは、毎2000マイルで取り替えています。自分でいじらない車が家に3台あります。いや、自分でいじれない車が3台あります。
親父は、私が日本に住んでいた1960年の後期頃、プロレス、キックボクシングが大好きで、テレビでタイトルマッチをたくさん見ていました。私が、プロレスは絶対に八百長だと言っても、信じてくれません。親父は、変な易とか手相や占いを信じていました。私は、中学生くらいの時から、あのお方は奇人変人だと思うようになりました。奇人変人的な行動や行為が、ジャンジャン、ビンビンありました。私が、中学校二年生で、弟が小学校五年生の時でした。親父が家に帰ると、いきなり弟に数字を頭に浮かべて、それを教えろと言うのです。家族みんなで「なんだ、それは? なんかのゲームかい?」と笑い飛ばすと、親父はいきなり取り乱してわめき散らすのです。いい加減にしろと、怒る家族四人をないがしろにして、ネチネチと同じ質問を弟にするのです。怒った弟は二階に走り去ってしまいました。親父もヤケクソでした。後で、お袋に事のイキサツを聞いてみました。
東京の親父の経営する会社の近くにタムロしているインチキ易者の一人に親父が相談しに行くと、お告げがあったそうです。家族の最年少の子供に、好きな数字を頭に浮かべさせて、その数字を教えてもらい、その数字に関連した会社の株を買えば儲かると言われたそうです。私たち家族全員あきれるばかりでした。「あれって、究極のインテリのやることかい?」と、お袋、妹、弟は私と同じに思ったに違いありません。親父は、易者からきっとどえらい額の金子を取られたのでしょう。インチキ詐欺師がやることは決まっています。金を受け取るのです。それ以外の何物でもありません。
もう一つ、インチキくっせえ話があります。また、ど偉いお告げです。別の易者(役者)から、親父は奇妙なことを言われたことがあります。親父の先祖は沼地の近くに住んでいて、じめじめした環境が体に非常にいけないのです。今住んでいる家の部屋の四隅に空気口を設置して、家の中の空気をいつも乾燥させていなければ、貴方の体はぼろぼろになっておかしくなってしまうだろうと、お告げがあったそうです。そのお告げを、あのお方は真に受けて、大工さんを雇って高い金を出し、一階の居間の四隅に空気が通り抜ける正方形の穴を空けました。虫が出入りしないように、金属の網を張ってスクリーンのようにしました。冬が来ると、その穴の影響で部屋が寒くて、いつもお袋がぶつぶつと文句を言っていました。私は、親父がなんでいつもそんなインチキ野郎の話をマジ聞きするのか疑っていました。その易者のインチキ野郎がタムロする場所に出かけて、顔を潰して簀巻きにしてから、東京湾に沈めてやろうかなと思ったくらいです。とにかく、私は絶対に星占い、カード占い、カードリーディング、易、念力、星占いなどは、絶対信じないで す。それらに関与する人々はインチキ、詐欺師、泥棒、ペテン師の領域に入ると固く信じているのです。私が警察官だったらすぐに捕まえます。私が検察官だったら、徹底的に検挙して追求します。私が陪審員だったら、絶対に有罪にします。私が最高裁の裁判長だったら、獄門、島流し、流罪、遠島を言い渡します。人間が、将来に起こることを予測することなど、絶対にできるはずが無いんです。米国にも、サイキックとかの詐欺師がいるけど、絶対にウソをこいています。それらを信じようとする人がいたら、金儲けの道具として使われるだけです。もし、そんな特別な能力があったら、宝くじ、富くじ、ロッテリーチケットを確実に当てるはずです。彼らの力説する言い訳は、私にはすでに解っています。神様は、自分達の利益の為には、私たちに備わった特殊技能を使わせてくれないのです。解っています。絶対にこう申すのです。信じません。ただし、それらに関与する人々が、全然金を受け取らないで、無料の御奉仕をするなら、私は考えを変えても良いと思っています。ノストラダムスもだめでしたね。今度はマヤのカレンダーですか? 暇な人が多い世の中に多いですね。金銭絡みのお告げは絶対に信用できないです。只なら信用します。
玉の井という場所が東京にあるらしいですね。私は、どこだか知りませんが、お袋が、私が中学三年の頃に、泣きながら玉の井のことを語っていたのを記憶しています。親父が、戦時中に玉の井の遊郭へ遊びに行った時のお話しです。そこにいたお姉さんに気に入られて、今夜は泊まっていきなさいと言われたそうです。しかし、明日、東京帝国大学の図書館に行って法律の勉強をしなくてはいけないので、申し訳ないが辞退しますと、若かった親父は言ったそうです。その遊郭を出て、親父は歩き始めました。30分位歩くと、玉の井の方角から、すさまじい音が聞こえてきたそうで、あちらの方の空が見る見ると真っ赤になっていったそうです。それは紛れも無い、アメリカ軍B-29が落とした爆弾と焼夷弾でした。二時間位前に、そこのお姉さんと遊んでいた玉の井の近辺です。火事で、辺りが真っ赤になり焼けていたそうです。そんな話を、武勇談みたいに親父はお袋に語るそうです。それも1回2回ではなく、猛烈にたくさん語るそうです。どぎつく、えぐい話も酒を飲んで夜な夜なするそうです。そんなアホな話に耐え切れなくなったお袋は、泣きながら私に熱く語るのです。すぐ涙を流して泣いちゃうのです。悪い癖です。私は人間の悲劇と惨劇をたくさん聞かされました。親父のことを玉の井から生還した男、玉の井から帰還した男、玉の井で死に損なった男などと、おちょくってお袋と笑っていました。泣くより笑う方がずっと良いのです。ガンと病気も笑いで治る時があるのです。
私が中学三年生の頃、朝マラ立ちと、激しく猛烈に、毎日口癖のように言って笑っていました。お袋は、マラという言葉を聞いて、耐え切れず、便所に隠れて恥ずかしさのあまりに泣くかと思いましたが、ビンビン笑っていました。ある時、ちょうど居合わせたのがインテリゲンチャの親父です。いきなり真顔で、私に質問をして来ました。またクイズショーの真似ごとか?と思いました。「朝マラ立ちの「マラ」の語源を知っているのかい?」と聞くインテリおじさんの質問です。知りませんとはっきし言うと、いろいろと注釈がじゃんじゃん飛び出しました。注釈と解説がどえらく長かったので、ここでは簡単に申します。語源はインド語でした。私は、それにつけ加えて、インド人もびっくりと言ってやりました。それは、カレーの宣伝の一部でした。それを聞いた親父は、またカレーの話を真顔で熱く語るのです。俺は、どうしよう、このお方はやたらに乗せねえ方がいいんじゃねえかと、いつも内心思っていました。あんまり、このおっさんを乗せると止まらなくなるんじゃねえかと思い始めました。でも、少しは私なりに興味のあった話しも親父は、伝授してくれました。孟子、孔子、老子の話です。空気の話は感動しました。ある偉い中国の思想家が質問を生徒にしました。「もし、私が貴方にどんなものでも直ぐに与えられることができたら、貴方は何を望みますか?」私は即座に金だと言いました。でも知識者は、目に見えない空気だと言ったそうです。「空気は、人間が生きて行く状態で必然的なものだが、目には見えないし匂いもしない」と言うのです。昔の人は、考えることがすごいなと思いました。私は、中国の歴史は得意ではありません。私は、19世紀中頃から20世紀の中頃のドイツ史に興味があります。日本史は、特に戦国時代の歴史が大好きです。日本史は、独学で時間がある限りたくさんの本を読んで勉強していました。親父は、中国語と漢方薬関連のエキスパートでした。はっきり言って、中国語は日本一でした。後でお話しを致します。
高校生になり、いろんな方面で暴れていた私は、楽しくおかしく、たまらない生活を毎日のようにしていました。高校一年の時に、クラスメートが20人程いました。その三割くらいの友達の親父達がヤーさんでした。二、三人のヤーさんの息子のクラスメートの家に遊びに行くと、坊ちゃんと呼ばれていました。変な付き人的なお兄さん達は、中途半端な武道言葉を使います。「オス」と言います。一度、ビシッと押忍(おす)の説明をしてやりました。本当の意味、語源、使い方、慣わし、作法など、押忍(オス)に関連した事柄の全てを指導してやりましたで、強面のお兄さんたちが実に喜んでにっこりするんです。気持ち悪い。でも人殺しに使われる剣術、短刀術は指導しませんでした。しばらく、ヤーさんの息子さん達とツルんでいました。覚えた言葉が二つあります。『鹿とをする』と『たんべ』です。私の親父に、これらの二つの言葉を教えてやると喜んでいました。「鹿とをする」とは、花札の中にある一枚のカードから来ているのです。「たんべ」は、韓国語でタバコのことです。
親父は、六大学で中国語を教えていました。話をよく聞いてみると、六大学の中国語教授達を前にして、中国語を教えていたそうです。先生の先生でした。親父って、日本一の中国語の能力があったのだ。私は実に感心致しました。親父は死ぬ少し前に、脳溢血を患って右手と右足が不自由になり、言語障害をわずらいました。お袋が、いつも可愛そうなパパと泣いていました。悪い癖です。清子さんはいつも泣いていました。実に悪い癖です。昔は私と一緒に親父のことをぼろくそに言っていたくせに、人間はどんでん返しのように変わるんだなあと思いました。
お袋は、高収入のアルバイトを親父がしていたことの話もしてくれました。東京の最高裁判所で通訳もやっていたそうです。たくさんの台湾人が、なんかの悪さをして裁判所につれて来られて、日本語ができず親父が通訳をしたそうです。またまた、びっくりしたことがあったそうです。裁判所に、香港、広東方面から来ていた中国人達がいたそうです。広東語と北京語の両方が流暢な親父は実に重宝されたそうです。一度は、最高裁判官よりお褒めのお言葉を承ったそうです。労をねぎらってくれ、裁判所のためによしなに働いて下さいということでした。さらに、裁判所が払っている報酬に税金を払わなくてもよいと言われましたが、親父はちゃんと税金申告をいたしておりました。親父が裁判官や検事さん達に言わなかったことが一つありました。親父は、東京と京都の両方の帝国大学の法学部で勉強して卒業した彼らの先輩です。これを言ったらみんな度肝を抜いただろうにね。
続く
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第一六四六号 合格証書 『親父の苗字と名前』 京都大学法学部に於いて、学部所定の学士試験に、合格したことを、証明する。 昭和二十三年三月三十日 京都大学法学部長従四位勲四等龍川幸辰 京都大学法学部長の証明を、認めて合格証書を、授興する。 京都大学総長従三位勲二等工学博士鳥養利三郎
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東京帝国大学の卒業証書は腹違いの兄が持っています。そのうち、あいつの住むコロラド州デンバーの日本食レストランに参上して、分捕ってやろうと思っています。親父の形見は渡せんと怒鳴り散らしたら、金でカタをつけるつもりです。
戦後、ある生々しく悲しい理由があり、親父は夢であった東京最高裁判所の裁判官の椅子に座れなかったのです。もちろん、理由は悪事関係ではありません。
親父は変わった人でした。インテリでした。すごいケチでした。私が、金髪美人の姉ちゃんをイタリアのスポーツカーに乗せて、サンフランシスコ市内を走り廻りたい。そして、友達のみんなに見せびらかしたいという理由で車を買う金を親父にせびると、絶対につっぱねてお断りです。しかし、これから将来勉強して医者になることを決めたので、月謝、入学金、寮に入る金などに必要な経費の2500万円をくれろと言うと即座に渡してくれます。遊びはだめみたいで、学業はよろしいみたいです。でも失敗談があります。テキサス州にいる実の弟は、大学を卒業して、更にその上をいじって博士号を持っているけど、その分野で達成できず、日本の貿易会社で働いています。完全な失敗です。親父、泣け!!
親父は1960年代の中頃、少なくとも700万円くらいの価値のあるアメ車のマーキュリークーガーを乗り回していました。ガールフレンドが数人いました。車の色は水色と緑色の中間でした。私の車は、チンケなホンダ360でした。色がシンドイ深緑色でした。ロータリーエンジンの搭載されたコスモというマツダのスポーツカーを買ってくれとせがむと、だめでした。たったの120万円くらいでした。アメリカに留学すると、フォルクスワーゲンを買わせようとする親父です。1971年の秋の時点で、親父はワーゲンの新車を買ってくれました。値段は1850ドルでした。この車は、私も気に入っていました。ラジエーターがなくて、空冷エンジンです。このドイツ車の修理修繕を全部できるように研修して、ワーゲン車メカニックになったのです。正解でした。チューンアップ、ブレーキ、クラッチ関連の修理修繕の仕事も全部できます。家に今、各種フォルクスワーゲンが5台ありますが、全部自分で修理しています。オイルチェンジは、毎2000マイルで取り替えています。自分でいじらない車が家に3台あります。いや、自分でいじれない車が3台あります。
親父は、私が日本に住んでいた1960年の後期頃、プロレス、キックボクシングが大好きで、テレビでタイトルマッチをたくさん見ていました。私が、プロレスは絶対に八百長だと言っても、信じてくれません。親父は、変な易とか手相や占いを信じていました。私は、中学生くらいの時から、あのお方は奇人変人だと思うようになりました。奇人変人的な行動や行為が、ジャンジャン、ビンビンありました。私が、中学校二年生で、弟が小学校五年生の時でした。親父が家に帰ると、いきなり弟に数字を頭に浮かべて、それを教えろと言うのです。家族みんなで「なんだ、それは? なんかのゲームかい?」と笑い飛ばすと、親父はいきなり取り乱してわめき散らすのです。いい加減にしろと、怒る家族四人をないがしろにして、ネチネチと同じ質問を弟にするのです。怒った弟は二階に走り去ってしまいました。親父もヤケクソでした。後で、お袋に事のイキサツを聞いてみました。
東京の親父の経営する会社の近くにタムロしているインチキ易者の一人に親父が相談しに行くと、お告げがあったそうです。家族の最年少の子供に、好きな数字を頭に浮かべさせて、その数字を教えてもらい、その数字に関連した会社の株を買えば儲かると言われたそうです。私たち家族全員あきれるばかりでした。「あれって、究極のインテリのやることかい?」と、お袋、妹、弟は私と同じに思ったに違いありません。親父は、易者からきっとどえらい額の金子を取られたのでしょう。インチキ詐欺師がやることは決まっています。金を受け取るのです。それ以外の何物でもありません。
もう一つ、インチキくっせえ話があります。また、ど偉いお告げです。別の易者(役者)から、親父は奇妙なことを言われたことがあります。親父の先祖は沼地の近くに住んでいて、じめじめした環境が体に非常にいけないのです。今住んでいる家の部屋の四隅に空気口を設置して、家の中の空気をいつも乾燥させていなければ、貴方の体はぼろぼろになっておかしくなってしまうだろうと、お告げがあったそうです。そのお告げを、あのお方は真に受けて、大工さんを雇って高い金を出し、一階の居間の四隅に空気が通り抜ける正方形の穴を空けました。虫が出入りしないように、金属の網を張ってスクリーンのようにしました。冬が来ると、その穴の影響で部屋が寒くて、いつもお袋がぶつぶつと文句を言っていました。私は、親父がなんでいつもそんなインチキ野郎の話をマジ聞きするのか疑っていました。その易者のインチキ野郎がタムロする場所に出かけて、顔を潰して簀巻きにしてから、東京湾に沈めてやろうかなと思ったくらいです。とにかく、私は絶対に星占い、カード占い、カードリーディング、易、念力、星占いなどは、絶対信じないで す。それらに関与する人々はインチキ、詐欺師、泥棒、ペテン師の領域に入ると固く信じているのです。私が警察官だったらすぐに捕まえます。私が検察官だったら、徹底的に検挙して追求します。私が陪審員だったら、絶対に有罪にします。私が最高裁の裁判長だったら、獄門、島流し、流罪、遠島を言い渡します。人間が、将来に起こることを予測することなど、絶対にできるはずが無いんです。米国にも、サイキックとかの詐欺師がいるけど、絶対にウソをこいています。それらを信じようとする人がいたら、金儲けの道具として使われるだけです。もし、そんな特別な能力があったら、宝くじ、富くじ、ロッテリーチケットを確実に当てるはずです。彼らの力説する言い訳は、私にはすでに解っています。神様は、自分達の利益の為には、私たちに備わった特殊技能を使わせてくれないのです。解っています。絶対にこう申すのです。信じません。ただし、それらに関与する人々が、全然金を受け取らないで、無料の御奉仕をするなら、私は考えを変えても良いと思っています。ノストラダムスもだめでしたね。今度はマヤのカレンダーですか? 暇な人が多い世の中に多いですね。金銭絡みのお告げは絶対に信用できないです。只なら信用します。
玉の井という場所が東京にあるらしいですね。私は、どこだか知りませんが、お袋が、私が中学三年の頃に、泣きながら玉の井のことを語っていたのを記憶しています。親父が、戦時中に玉の井の遊郭へ遊びに行った時のお話しです。そこにいたお姉さんに気に入られて、今夜は泊まっていきなさいと言われたそうです。しかし、明日、東京帝国大学の図書館に行って法律の勉強をしなくてはいけないので、申し訳ないが辞退しますと、若かった親父は言ったそうです。その遊郭を出て、親父は歩き始めました。30分位歩くと、玉の井の方角から、すさまじい音が聞こえてきたそうで、あちらの方の空が見る見ると真っ赤になっていったそうです。それは紛れも無い、アメリカ軍B-29が落とした爆弾と焼夷弾でした。二時間位前に、そこのお姉さんと遊んでいた玉の井の近辺です。火事で、辺りが真っ赤になり焼けていたそうです。そんな話を、武勇談みたいに親父はお袋に語るそうです。それも1回2回ではなく、猛烈にたくさん語るそうです。どぎつく、えぐい話も酒を飲んで夜な夜なするそうです。そんなアホな話に耐え切れなくなったお袋は、泣きながら私に熱く語るのです。すぐ涙を流して泣いちゃうのです。悪い癖です。私は人間の悲劇と惨劇をたくさん聞かされました。親父のことを玉の井から生還した男、玉の井から帰還した男、玉の井で死に損なった男などと、おちょくってお袋と笑っていました。泣くより笑う方がずっと良いのです。ガンと病気も笑いで治る時があるのです。
私が中学三年生の頃、朝マラ立ちと、激しく猛烈に、毎日口癖のように言って笑っていました。お袋は、マラという言葉を聞いて、耐え切れず、便所に隠れて恥ずかしさのあまりに泣くかと思いましたが、ビンビン笑っていました。ある時、ちょうど居合わせたのがインテリゲンチャの親父です。いきなり真顔で、私に質問をして来ました。またクイズショーの真似ごとか?と思いました。「朝マラ立ちの「マラ」の語源を知っているのかい?」と聞くインテリおじさんの質問です。知りませんとはっきし言うと、いろいろと注釈がじゃんじゃん飛び出しました。注釈と解説がどえらく長かったので、ここでは簡単に申します。語源はインド語でした。私は、それにつけ加えて、インド人もびっくりと言ってやりました。それは、カレーの宣伝の一部でした。それを聞いた親父は、またカレーの話を真顔で熱く語るのです。俺は、どうしよう、このお方はやたらに乗せねえ方がいいんじゃねえかと、いつも内心思っていました。あんまり、このおっさんを乗せると止まらなくなるんじゃねえかと思い始めました。でも、少しは私なりに興味のあった話しも親父は、伝授してくれました。孟子、孔子、老子の話です。空気の話は感動しました。ある偉い中国の思想家が質問を生徒にしました。「もし、私が貴方にどんなものでも直ぐに与えられることができたら、貴方は何を望みますか?」私は即座に金だと言いました。でも知識者は、目に見えない空気だと言ったそうです。「空気は、人間が生きて行く状態で必然的なものだが、目には見えないし匂いもしない」と言うのです。昔の人は、考えることがすごいなと思いました。私は、中国の歴史は得意ではありません。私は、19世紀中頃から20世紀の中頃のドイツ史に興味があります。日本史は、特に戦国時代の歴史が大好きです。日本史は、独学で時間がある限りたくさんの本を読んで勉強していました。親父は、中国語と漢方薬関連のエキスパートでした。はっきり言って、中国語は日本一でした。後でお話しを致します。
高校生になり、いろんな方面で暴れていた私は、楽しくおかしく、たまらない生活を毎日のようにしていました。高校一年の時に、クラスメートが20人程いました。その三割くらいの友達の親父達がヤーさんでした。二、三人のヤーさんの息子のクラスメートの家に遊びに行くと、坊ちゃんと呼ばれていました。変な付き人的なお兄さん達は、中途半端な武道言葉を使います。「オス」と言います。一度、ビシッと押忍(おす)の説明をしてやりました。本当の意味、語源、使い方、慣わし、作法など、押忍(オス)に関連した事柄の全てを指導してやりましたで、強面のお兄さんたちが実に喜んでにっこりするんです。気持ち悪い。でも人殺しに使われる剣術、短刀術は指導しませんでした。しばらく、ヤーさんの息子さん達とツルんでいました。覚えた言葉が二つあります。『鹿とをする』と『たんべ』です。私の親父に、これらの二つの言葉を教えてやると喜んでいました。「鹿とをする」とは、花札の中にある一枚のカードから来ているのです。「たんべ」は、韓国語でタバコのことです。
親父は、六大学で中国語を教えていました。話をよく聞いてみると、六大学の中国語教授達を前にして、中国語を教えていたそうです。先生の先生でした。親父って、日本一の中国語の能力があったのだ。私は実に感心致しました。親父は死ぬ少し前に、脳溢血を患って右手と右足が不自由になり、言語障害をわずらいました。お袋が、いつも可愛そうなパパと泣いていました。悪い癖です。清子さんはいつも泣いていました。実に悪い癖です。昔は私と一緒に親父のことをぼろくそに言っていたくせに、人間はどんでん返しのように変わるんだなあと思いました。
お袋は、高収入のアルバイトを親父がしていたことの話もしてくれました。東京の最高裁判所で通訳もやっていたそうです。たくさんの台湾人が、なんかの悪さをして裁判所につれて来られて、日本語ができず親父が通訳をしたそうです。またまた、びっくりしたことがあったそうです。裁判所に、香港、広東方面から来ていた中国人達がいたそうです。広東語と北京語の両方が流暢な親父は実に重宝されたそうです。一度は、最高裁判官よりお褒めのお言葉を承ったそうです。労をねぎらってくれ、裁判所のためによしなに働いて下さいということでした。さらに、裁判所が払っている報酬に税金を払わなくてもよいと言われましたが、親父はちゃんと税金申告をいたしておりました。親父が裁判官や検事さん達に言わなかったことが一つありました。親父は、東京と京都の両方の帝国大学の法学部で勉強して卒業した彼らの先輩です。これを言ったらみんな度肝を抜いただろうにね。
続く