我父 宗行さん 後編
親父は、皆ができる当たり前のようなことができませんでした。まず、自転車に乗ることができません。まして、チャリンコの立ちこぎなんかできる訳がないのです。もう一つは、水泳ができませんでした。「乗っている船が沈んだら、いったいどうするんだい?」と、いつもお袋と一緒におちょくっていました。その度に「畜生、お前らなんかに分かってたまるか」と叫ぶので笑っちゃいました。負けず嫌いの親父でした。人に対応する時は、なぜかけんか腰です。50歳位になったら、怒っているのか笑っているのか、よく分からない中途半端な顔をしていました。何を考えているか分かりません。たまに外を見て、空を仰ぐような体裁です。「空飛ぶ円盤でも探そうとしていたんじゃねえか」と私は思いました。
目も朧加減でよく分かりません。近所の子供が、親父の顔を見て「怖い」と泣いたことも数回ありました。いつも打ちひしがれていたのでしょうか? それとも、単なる加齢症状だったのでしょうか? 極度のインテリ人間は訳が分からないです。頭の回転が速いのでついていけません。
私は、神田に住んでいたビルの屋上で一人で遊んでいることがよくありました。5歳くらいの時でした。ある時、同じビルの三階に住む、親父の東京帝国大学後輩の兼ちゃんと怖い顔をした宗行さんの二人がライフルを持っていきなり現れました。屋上の角の方にあった木の柱にめがけてライフル銃を連射です。空の薬莢が、あたり一面に飛び散りました。音がすごかったです。私は空の薬莢をたくさん集めて秘蔵にしました。インテリのおっさんが、鬱憤の気分が高まり、プッツン切れたのかなと思いました。あれが、親父の鬱憤晴らしだったのだと回想する私です。私は、ライフル魔のおっさんを見ているような錯覚に陥っていました。
私が8歳の時、親父は現金200万円を腹巻の下に隠して持参し、横浜市と川崎市の市境に近い川崎市側に家を買い、私たち四人家族はそこに引越しました。小学校一年と二年を過ごした東京都板橋区を私たち家族は去ったのです。川崎の家は平屋でした。チンケな家でした。私が小学校五年の時に、その家を増築して二階建てにしました。親父は毎週、自慢の焼肉料理をして楽しんでいました。私は海産物の方が好きでいつも食べていました。肉を食うと脂っこいので『ウッ』とはきそうになって、実に気持ち悪くなってしまうのです。盛られた肉の近くに野菜のサラダがたくさん用意してありました。「肉をこれくらい食ったら、野菜をこの肉の量の三倍食えば体に良いのだ」と、親父はいつも力説するんです。私はいつも、お袋の作った白菜の漬物に、唐辛子をたくさんぶちかけて食べていました。私は、人生で一度も便秘をしたことがありません。渡米してからも、一度もありません。実の妹と弟は、いつもイチジク浣腸を、母より抑えられてぶちかまされていました。「ざまを見ろ」と、私はいつも便所に隠れて笑っていました。日本では、『焼き鳥』と呼んで、みんながビールや酒と一緒に楽しんでいるけど、あれは最悪です。食べ過ぎると、体が酸性化して骨と骨の間に結晶が溜まり、かなりの痛みを抱えることになります。美食とか美人の裏には、必ず悪影響が存在します。痛風で悩む人にお悔やみを申し上げます。南無妙法蓮華経。チーン。
お袋の話では、親父は戦後直ぐに中古の進駐軍のジープをどこからか買ってきて、乗り回していたそうです。一度、東京から清子さんの生まれた栃木県に、ジープを運転して参ったそうです。田んぼ道を走っていると、親父は運転をドジって、田んぼの真ん中辺に軽い車体のジープを突っ込んでしまったそうです。田植えをしていたお百姓さん三人が、ジープを田んぼから引き上げてくれたそうです。板橋区に住んでいる時、親父はどでかいアメ車を運転して、私を家から小学校へ送迎してくれていました。ハンドルの内側の真ん中に帆船の絵がありました。車体の色は黒かこげ茶色です。ドでかい車の後ろの席に家族4人を乗せ、東京案内をしてくれました。多分、フォードかクライスラーの古い車でしょう。
一ヶ月に一度か二度、家族で横浜の中華街に広東料理、四川料理を食べに行っていました。帰りは、元町方面より石川町の駅へ歩きました。出入り口は二つあって、中華街に近い方から電車に乗る時は、コリアン市場にも足を運んで、珍しい野菜を見つけて買ったりしていました。中学と高校の時、私は横浜中華街にある空手道場に通い、珍しい野菜は私が買うことになりました。日本語でコー菜とかイン菜とか呼ばれる、結構においがきつい野菜を買わされていました。私は、市場の気の良い八百屋のおっさんと親しくなっていました。
親父は、プロの写真家気取りでたくさんの写真を撮っていました。結構写真を撮るのがうまかったです。いろんなカメラが家にありました。多分、買ったカメラの総計をしたら、5000万円は超えていたでしょう。そして、フィルムも自分で処理して写真も焼いていました。家には、くっせえ科学薬品がたくさんありました。空手と剣術の練習時の写真もたくさん撮ってくれました。私の赤ん坊の時の写真もかなりあります。私の小学校、中学校の友達は幼少の頃の写真がありません。
30歳くらいの時から親父の頭の毛が薄くなってきて、つるっぱげに近かったです。私がふざけ半分で、カツラを、付ければよいと言うと、マジでズラを買いに行こうとしていました。アホみたいに「変なところで、のって来るんだなあ」と猛烈に思いました。一度は、金髪のズラを付けるのだと力説するのです。どこまでホントなのか分からない親父でした。
私は私立の男子校に通っていました。大学付属の高校で、一応工学部の大学へ行くことになっていましたが、渡米したので中退のようなカタチになりました。高校に通っている頃は結構楽しかったです。成績もクラスでいつも5番以内でした。親父は、学校の月謝を小切手を書いて支払ってくれていました。毎月、私は担任の先生に、親父が書いてくれた小切手を届けに行っていました。何でこんな紙切れが金と同じなんだろうと思っていた私です。でも、なんかちょっと他の生徒と違って『かっこいいな』とも思っていました。日本ではあの頃、小切手を持っていて書いている人達は会社の社長さんぐらいだったのでしょう。ちょっと優越感を味わっていました。
親父の会社の一つに貿易会社もありました。余り大きな会社ではなかったですが、たまに手伝わされました。東京の中華料理屋の待合室の隅でテーブルを三つ出して、中国製の缶詰のくるみや豆類を売っていました。マネージャーのおっさんの娘が手伝いに来ていました。獅子舞 の獅子のような顔をしていました。「すげえブスだな」と思っていました。その子は外人だったので、東京にあったアメリカンスクールに通っていました。私の金髪ガールフレンドのマリーさんと比べてしまいました。全然違います。段ちに違います。アルバイトさせられた中華料理店の店先のブスの姉ちゃんの顔が忘れられません。一生懸命がんばって忘れてしまいたい私ですが、あの顔はいまだに夢にも出たりしています。忘れられないのです。
親父は軍刀を隠して持っていました、洋服ダンスの後ろにありました。新軍装なので、鞘の外側が鉄でできていて、すごく重かったです。中身は樋(ひ)が入っていたので、今から考えると南北朝期(1334-1389年)に製作された日本刀でしょう。あの頃に製作された日本刀は、焼け身の刀もたくさんあります。南北朝期と古いので、あまり拝見することはありません。重要文化財、重要美術品に指定されている刀がたくさんあります。いろんな種類の日本刀が製作されました。その時代約60年間にたくさんの戦争が起こされました。二人の天皇が存在したからです。権力争いです。
1990年代後半期は、訪日をたくさんしていました。家が川崎にあったので、宿泊費と食事代は只でした。ある時、私の昔使っていた大きな机の引き出しの中をかたずけていると、親父の昔の銀行口座預金通帳が17冊程出てきました。もちろん、その時はすでに使われていませんでした。額を見るとビックリです。3000万円とか4000万円が最も多く、5000万円と7000万円のもありました。きっと税金対策の知恵の結果です。
親父の中華料理店と日本食店は東京にありました。中華料理店は、東京タワーが大きく見える場所にありました。お袋の清子さんの話では、ある時、雇っていた中国人のマネージャーに大金を持ち逃げされたそうです。400万円相当を持って新潟の方面までトンズラされたそうです。それに似た事件も過去にあったそうです。私の生まれる少し前に、立川市にあった中華料理店のマネジャーがやはりトンズラしたそうです。その時の額は数十万円だったそうです。沖縄で海王博覧会が開催された1980年代には気をつけていたので、誰にもトンズラされなかったそうです。お袋の清子さんの意見では、インテリ博学者の宗行さんは商売に向いていないそうです。
親父の手作り餃子は最高でした。一ヶ月に一回は、会社から帰宅後、私達4人家族と夕食を一緒にしてくれました。親父は手作り餃子を、皮から全部巧みに作ってくれました。それも、皮が普通のよりも三倍も大きいので、六つ、七つ食べるとお腹がいっぱいになりました。余ったドでかい餃子は焼いて二、三日続けて食べていました。餃子を近所のオバサンにも差しあげていました。隣にいたタケシ君の爆乳お母さんの貞子さんに、よく差し上げていました。餃子の中身は豚肉か魚のすり身です。戦争の少し前に中国本土にいた親父は、本物の中華料理の味を知っていて、かなりの数の中華料理品目を作ることをができました。本当の餃子、特に北京近郊のものには「下賎なニンニクは入っていないのだ。その代わりに、ニラがたくさん入っているのだ」と力説する親父です。中身は、他にもいろんな物が入っていました。シイタケ、タケノコ、干し海老、岩塩、ゴマ油、白ゴマ、黒ゴマ、白 菜などです。キャベツは水が出るので、入れても控えめでした。私は、この親父の餃子を手本にして、自分のアイデアも盛り込んで、今は私の家族と魚すり身入りの餃子を作って食べています。皮は市販の物です。でも、そのうち変人奇人だった親父のドでかい皮を真似して手製で作って、もっとすごいのを作ってみようと思っています。
私達が小学校の頃、お袋が「パパは今日、会社の仕事が忙しくて会社の寮にお泊りです」と、弁解のようなことを言っていました。子供の私達は、お袋の猿芝居に疑わず聞きいっていました。でも、私が中学生頃に「なんかおかしいんじゃねえか」と言い出すと、急に取り乱して泣いて誤魔化していました。私は、内心「ふざけるな。馬鹿野朗。見え透いたうそをこきやがって」と思っていました。親父には、内縁の妻がいました。ガールフレンドもたくさんいました。全然うらやましくありません。気違い沙汰です。オトコとして最低で人間失格です。
ついに、親父が永眠しました。平成11年3月4日です。78歳でした。さようなら。
目も朧加減でよく分かりません。近所の子供が、親父の顔を見て「怖い」と泣いたことも数回ありました。いつも打ちひしがれていたのでしょうか? それとも、単なる加齢症状だったのでしょうか? 極度のインテリ人間は訳が分からないです。頭の回転が速いのでついていけません。
私は、神田に住んでいたビルの屋上で一人で遊んでいることがよくありました。5歳くらいの時でした。ある時、同じビルの三階に住む、親父の東京帝国大学後輩の兼ちゃんと怖い顔をした宗行さんの二人がライフルを持っていきなり現れました。屋上の角の方にあった木の柱にめがけてライフル銃を連射です。空の薬莢が、あたり一面に飛び散りました。音がすごかったです。私は空の薬莢をたくさん集めて秘蔵にしました。インテリのおっさんが、鬱憤の気分が高まり、プッツン切れたのかなと思いました。あれが、親父の鬱憤晴らしだったのだと回想する私です。私は、ライフル魔のおっさんを見ているような錯覚に陥っていました。
私が8歳の時、親父は現金200万円を腹巻の下に隠して持参し、横浜市と川崎市の市境に近い川崎市側に家を買い、私たち四人家族はそこに引越しました。小学校一年と二年を過ごした東京都板橋区を私たち家族は去ったのです。川崎の家は平屋でした。チンケな家でした。私が小学校五年の時に、その家を増築して二階建てにしました。親父は毎週、自慢の焼肉料理をして楽しんでいました。私は海産物の方が好きでいつも食べていました。肉を食うと脂っこいので『ウッ』とはきそうになって、実に気持ち悪くなってしまうのです。盛られた肉の近くに野菜のサラダがたくさん用意してありました。「肉をこれくらい食ったら、野菜をこの肉の量の三倍食えば体に良いのだ」と、親父はいつも力説するんです。私はいつも、お袋の作った白菜の漬物に、唐辛子をたくさんぶちかけて食べていました。私は、人生で一度も便秘をしたことがありません。渡米してからも、一度もありません。実の妹と弟は、いつもイチジク浣腸を、母より抑えられてぶちかまされていました。「ざまを見ろ」と、私はいつも便所に隠れて笑っていました。日本では、『焼き鳥』と呼んで、みんながビールや酒と一緒に楽しんでいるけど、あれは最悪です。食べ過ぎると、体が酸性化して骨と骨の間に結晶が溜まり、かなりの痛みを抱えることになります。美食とか美人の裏には、必ず悪影響が存在します。痛風で悩む人にお悔やみを申し上げます。南無妙法蓮華経。チーン。
お袋の話では、親父は戦後直ぐに中古の進駐軍のジープをどこからか買ってきて、乗り回していたそうです。一度、東京から清子さんの生まれた栃木県に、ジープを運転して参ったそうです。田んぼ道を走っていると、親父は運転をドジって、田んぼの真ん中辺に軽い車体のジープを突っ込んでしまったそうです。田植えをしていたお百姓さん三人が、ジープを田んぼから引き上げてくれたそうです。板橋区に住んでいる時、親父はどでかいアメ車を運転して、私を家から小学校へ送迎してくれていました。ハンドルの内側の真ん中に帆船の絵がありました。車体の色は黒かこげ茶色です。ドでかい車の後ろの席に家族4人を乗せ、東京案内をしてくれました。多分、フォードかクライスラーの古い車でしょう。
一ヶ月に一度か二度、家族で横浜の中華街に広東料理、四川料理を食べに行っていました。帰りは、元町方面より石川町の駅へ歩きました。出入り口は二つあって、中華街に近い方から電車に乗る時は、コリアン市場にも足を運んで、珍しい野菜を見つけて買ったりしていました。中学と高校の時、私は横浜中華街にある空手道場に通い、珍しい野菜は私が買うことになりました。日本語でコー菜とかイン菜とか呼ばれる、結構においがきつい野菜を買わされていました。私は、市場の気の良い八百屋のおっさんと親しくなっていました。
親父は、プロの写真家気取りでたくさんの写真を撮っていました。結構写真を撮るのがうまかったです。いろんなカメラが家にありました。多分、買ったカメラの総計をしたら、5000万円は超えていたでしょう。そして、フィルムも自分で処理して写真も焼いていました。家には、くっせえ科学薬品がたくさんありました。空手と剣術の練習時の写真もたくさん撮ってくれました。私の赤ん坊の時の写真もかなりあります。私の小学校、中学校の友達は幼少の頃の写真がありません。
30歳くらいの時から親父の頭の毛が薄くなってきて、つるっぱげに近かったです。私がふざけ半分で、カツラを、付ければよいと言うと、マジでズラを買いに行こうとしていました。アホみたいに「変なところで、のって来るんだなあ」と猛烈に思いました。一度は、金髪のズラを付けるのだと力説するのです。どこまでホントなのか分からない親父でした。
私は私立の男子校に通っていました。大学付属の高校で、一応工学部の大学へ行くことになっていましたが、渡米したので中退のようなカタチになりました。高校に通っている頃は結構楽しかったです。成績もクラスでいつも5番以内でした。親父は、学校の月謝を小切手を書いて支払ってくれていました。毎月、私は担任の先生に、親父が書いてくれた小切手を届けに行っていました。何でこんな紙切れが金と同じなんだろうと思っていた私です。でも、なんかちょっと他の生徒と違って『かっこいいな』とも思っていました。日本ではあの頃、小切手を持っていて書いている人達は会社の社長さんぐらいだったのでしょう。ちょっと優越感を味わっていました。
親父の会社の一つに貿易会社もありました。余り大きな会社ではなかったですが、たまに手伝わされました。東京の中華料理屋の待合室の隅でテーブルを三つ出して、中国製の缶詰のくるみや豆類を売っていました。マネージャーのおっさんの娘が手伝いに来ていました。獅子舞 の獅子のような顔をしていました。「すげえブスだな」と思っていました。その子は外人だったので、東京にあったアメリカンスクールに通っていました。私の金髪ガールフレンドのマリーさんと比べてしまいました。全然違います。段ちに違います。アルバイトさせられた中華料理店の店先のブスの姉ちゃんの顔が忘れられません。一生懸命がんばって忘れてしまいたい私ですが、あの顔はいまだに夢にも出たりしています。忘れられないのです。
親父は軍刀を隠して持っていました、洋服ダンスの後ろにありました。新軍装なので、鞘の外側が鉄でできていて、すごく重かったです。中身は樋(ひ)が入っていたので、今から考えると南北朝期(1334-1389年)に製作された日本刀でしょう。あの頃に製作された日本刀は、焼け身の刀もたくさんあります。南北朝期と古いので、あまり拝見することはありません。重要文化財、重要美術品に指定されている刀がたくさんあります。いろんな種類の日本刀が製作されました。その時代約60年間にたくさんの戦争が起こされました。二人の天皇が存在したからです。権力争いです。
1990年代後半期は、訪日をたくさんしていました。家が川崎にあったので、宿泊費と食事代は只でした。ある時、私の昔使っていた大きな机の引き出しの中をかたずけていると、親父の昔の銀行口座預金通帳が17冊程出てきました。もちろん、その時はすでに使われていませんでした。額を見るとビックリです。3000万円とか4000万円が最も多く、5000万円と7000万円のもありました。きっと税金対策の知恵の結果です。
親父の中華料理店と日本食店は東京にありました。中華料理店は、東京タワーが大きく見える場所にありました。お袋の清子さんの話では、ある時、雇っていた中国人のマネージャーに大金を持ち逃げされたそうです。400万円相当を持って新潟の方面までトンズラされたそうです。それに似た事件も過去にあったそうです。私の生まれる少し前に、立川市にあった中華料理店のマネジャーがやはりトンズラしたそうです。その時の額は数十万円だったそうです。沖縄で海王博覧会が開催された1980年代には気をつけていたので、誰にもトンズラされなかったそうです。お袋の清子さんの意見では、インテリ博学者の宗行さんは商売に向いていないそうです。
親父の手作り餃子は最高でした。一ヶ月に一回は、会社から帰宅後、私達4人家族と夕食を一緒にしてくれました。親父は手作り餃子を、皮から全部巧みに作ってくれました。それも、皮が普通のよりも三倍も大きいので、六つ、七つ食べるとお腹がいっぱいになりました。余ったドでかい餃子は焼いて二、三日続けて食べていました。餃子を近所のオバサンにも差しあげていました。隣にいたタケシ君の爆乳お母さんの貞子さんに、よく差し上げていました。餃子の中身は豚肉か魚のすり身です。戦争の少し前に中国本土にいた親父は、本物の中華料理の味を知っていて、かなりの数の中華料理品目を作ることをができました。本当の餃子、特に北京近郊のものには「下賎なニンニクは入っていないのだ。その代わりに、ニラがたくさん入っているのだ」と力説する親父です。中身は、他にもいろんな物が入っていました。シイタケ、タケノコ、干し海老、岩塩、ゴマ油、白ゴマ、黒ゴマ、白 菜などです。キャベツは水が出るので、入れても控えめでした。私は、この親父の餃子を手本にして、自分のアイデアも盛り込んで、今は私の家族と魚すり身入りの餃子を作って食べています。皮は市販の物です。でも、そのうち変人奇人だった親父のドでかい皮を真似して手製で作って、もっとすごいのを作ってみようと思っています。
私達が小学校の頃、お袋が「パパは今日、会社の仕事が忙しくて会社の寮にお泊りです」と、弁解のようなことを言っていました。子供の私達は、お袋の猿芝居に疑わず聞きいっていました。でも、私が中学生頃に「なんかおかしいんじゃねえか」と言い出すと、急に取り乱して泣いて誤魔化していました。私は、内心「ふざけるな。馬鹿野朗。見え透いたうそをこきやがって」と思っていました。親父には、内縁の妻がいました。ガールフレンドもたくさんいました。全然うらやましくありません。気違い沙汰です。オトコとして最低で人間失格です。
ついに、親父が永眠しました。平成11年3月4日です。78歳でした。さようなら。