2005年2月15日(火)
刀のはなし25
鎌倉時代の名工、正宗
鎌倉時代の名工、正宗は鎌倉の今小路で生まれ、名を五郎と称しました。名工の国光の門人となって相州伝の秘伝を学び日本全国を行脚して、山城伝、備前伝も学び正宗十哲と呼ばれる名工たちを育て上げた教育者でありました。
正宗の活躍した時代は、蒙古襲来が忘れられかけたころで、鎌倉時代後期とされています。この元寇が太刀に与えた影響は過大なものでした。蒙古人の付けていた皮の鎧を太刀で切ることは用意ではありません。平安時代の優雅な太刀に、必然と平肉をたっぷり付けて、切先も猪首切先に変換され、切れ味に一層の改良が加えられました。
現存する正宗の作品は、100振くらい確認されています。長寸の太刀は短く磨上げられ、在銘が無銘になりました。太刀の体配は尋常で切先がやや延び、短刀の刃渡りが8寸前後で長くても9寸までです。これらの造り込み体配、刃渡り等は普通の相州伝の太刀や短刀に適合しています。
正宗の地鉄は、小板目か板目に地景がよく交じり、冴えて明るく、金筋、砂流し等の働きが刃紋に見られます。正宗の刃紋は多種多様で、湾(のた)れと丁字または湾れと互の目を主としたもの、数珠刃、玉刃、扇刃、島刃、州浜、半月、短冊などが見られます。太刀の忠は剣形で、短刀の中心は振袖形か船底形です。
戦国時代から江戸時代には、正宗の太刀が贈刀の対象になり、有名な戦国大名は恩賞よして剣刀類を与えられました。これは、兵乱の後で将軍家が諸大名に国の石高を多く与える代わりに刀を与える風習ができあがったためです。儀式も盛大に行われ、初期のころは在銘の刀が恩賞として与えられていましたが、数も少なくなり無銘の刀が選ばれるようになりました。
正宗の作品は江戸時代に天下三作の一つとされ、徳川八代将軍吉宗の命によって享保4年の当時、徳川幕府の腰物係であった星野求与が本阿弥の原稿を書き写した、いわゆる星野本と呼ばれるものが徳川時代に転写され、世間に流布されました。享保名物帳に掲載の刀剣三百八振のうち六十振が正宗の作品です。織田家には三振の正宗。豊臣家には四振の正宗。徳川将軍家には十八振の正宗が所持されていました。機会があって手に取って拝見した正宗の太刀はすばらしいものでした。
鎌倉時代の名工、正宗
鎌倉時代の名工、正宗は鎌倉の今小路で生まれ、名を五郎と称しました。名工の国光の門人となって相州伝の秘伝を学び日本全国を行脚して、山城伝、備前伝も学び正宗十哲と呼ばれる名工たちを育て上げた教育者でありました。
正宗の活躍した時代は、蒙古襲来が忘れられかけたころで、鎌倉時代後期とされています。この元寇が太刀に与えた影響は過大なものでした。蒙古人の付けていた皮の鎧を太刀で切ることは用意ではありません。平安時代の優雅な太刀に、必然と平肉をたっぷり付けて、切先も猪首切先に変換され、切れ味に一層の改良が加えられました。
現存する正宗の作品は、100振くらい確認されています。長寸の太刀は短く磨上げられ、在銘が無銘になりました。太刀の体配は尋常で切先がやや延び、短刀の刃渡りが8寸前後で長くても9寸までです。これらの造り込み体配、刃渡り等は普通の相州伝の太刀や短刀に適合しています。
正宗の地鉄は、小板目か板目に地景がよく交じり、冴えて明るく、金筋、砂流し等の働きが刃紋に見られます。正宗の刃紋は多種多様で、湾(のた)れと丁字または湾れと互の目を主としたもの、数珠刃、玉刃、扇刃、島刃、州浜、半月、短冊などが見られます。太刀の忠は剣形で、短刀の中心は振袖形か船底形です。
戦国時代から江戸時代には、正宗の太刀が贈刀の対象になり、有名な戦国大名は恩賞よして剣刀類を与えられました。これは、兵乱の後で将軍家が諸大名に国の石高を多く与える代わりに刀を与える風習ができあがったためです。儀式も盛大に行われ、初期のころは在銘の刀が恩賞として与えられていましたが、数も少なくなり無銘の刀が選ばれるようになりました。
正宗の作品は江戸時代に天下三作の一つとされ、徳川八代将軍吉宗の命によって享保4年の当時、徳川幕府の腰物係であった星野求与が本阿弥の原稿を書き写した、いわゆる星野本と呼ばれるものが徳川時代に転写され、世間に流布されました。享保名物帳に掲載の刀剣三百八振のうち六十振が正宗の作品です。織田家には三振の正宗。豊臣家には四振の正宗。徳川将軍家には十八振の正宗が所持されていました。機会があって手に取って拝見した正宗の太刀はすばらしいものでした。