女性の胸
なぜ私たちアホな男どもは、女性の胸に異常なまでの憧れを抱くのでしょう。これは、長い長い人生の課題です。解き明かされなくてはいけない宿題かもしれません。私はホモではないので女性の胸が大好きです。美乳に強い憧れを抱いています。貧乳に腹が立ちます。北海道にいるホルスタイン種の乳牛などの、垂れ下がっているどでかいのは幻滅です。
お袋の清子さんの話では、私は母乳で育ちました。母乳だけでは飲む量が足りなかったので、父がドイツから特別に取り寄せたラクトーゲンと言う粉ミルクをいつも用意して、赤ん坊の私に飲ませていたそうです。授乳の時は、片手でお袋のパイパイをもみもみしていたそうです。そして、その揉む手に異常な技術があり、いやらしかったそうです。お袋は、私のその揉む手をピシャピシャとひっぱたいていたそうです。
小学校六年生頃、近所に住んでいた4歳くらいの小さな坊やと遊んでいると、28歳位の若いお母さんが時折、私と息子を見に来ます。目がパッチリした綺麗な女性で、夏には薄いワンピースのハワイアン風のムームーのような服を着ています。実に、服の生地が薄いので、桃色のパンツをはいているのが見えます。上のブラジャーをつけていないので、大きな乳房と乳首が見えます。そして、乳首の周りに濃い毛が生えているのも見えました。目のやり場に困ることも、たびたびです。誰にも言うことのできない気まずい11歳の夏の私でした。
もう一人、いつも焦らせられる隣の家のオバサンがいました。タケシ君のお母さんです。夏になると暑いので、上半身が裸です。すごい乳をしていました。少し垂れ気味でしたが、でかかったです。後ろに背負っている息子に、肩越しにホイと放り上げて授乳するのです。乳房がどでかく、長く伸びたカタチでした。そして、青緑の血管も通っているのも見えました。夏の暑い日に、上半身が裸でいつも挨拶を窓際で交わすのです。私は、たまらなく焦っていました。
中学校一年の頃、バスケット部に所属する先輩の女性がいました。放課後、友達と一緒に練習していました。ボールがバスケット部の練習する方角に飛んでゆき、ボールを拾ってくれた女性の先輩が腰を曲げて、前向きにかがんだので、アルファベットの「W」の形の胸がチラッと見えました。一瞬焦りました。でも、すごく綺麗な半円形の丸い乳房が見えたので興奮してしまいました。ボールが飛んでいくたびに、アルファベットの「W」の形が見えました。わざと私を焦らせようとしていたのでしょうか? 丸い大きなダブリューの字が見える回数が多すぎるよ。
8歳から12歳ぐらいまでの冬休みと夏休みは、東京の中延にいた祖母の照さんの家で暮らしていました。夏は、オバサンのおエンさんが素っ裸で行水をしていました。すごい、均整の取れた体です。実にしびれてしまいました。たぶん、私のことを男として見ていなかったのでしょう。『もう少し、水を持ってきてくれ』というのです。私は興奮して震えながら、井戸の水を汲んでせっせと運んでいました。美人の女性の裸を見て実に嬉しかったです。
高校一年の時にハーフのガールフレンドがいました。よくチューをしていました。でも、大人達のする行為はしませんでした。二人とも若かったので、できなかったのです。でも、着替えている時に美乳が見えました。真ッピンクの乳首が実に印象的でした。
1971年よりアメリカに留学して、成人学校にいたスエーデン人のお姉ちゃんとしばらく付き合っていました。彼女のオンナ友達二人が、スエーデンからサンフランシスコに訪問しました。ある日、三人を連れてクリフハウスの近くの浜辺にいったら、上半身素っ裸になりました。三人の金髪の姉ちゃん達が、はしゃいでいるところに騎馬警官が来て注意しました。『ここはアメリカなので、上半身のヌードは法律で禁止されている』と言うのです。もうちょっとで、逮捕されていたかもしれません。でも、今思い出すと、あの騎馬警官は注意していた時、笑顔をなんとなく浮かべていました。そうでしょう、美乳の三人を見たので仕方がないでしょう。
1990年代は、日本刀の修理修繕の技術を学ぶためによく訪日していました。私の妹の娘がちょうど20歳のころで、そのころ日本ではやっている言葉をたくさん教えてくれました。その中に巨乳がありました。姪は、巨乳よりもっとすごいのがあると言うのです。爆乳でした。でも、巨乳、爆乳は女性をさげすむ言葉のようなので、美乳と変えられたそうです。私は、この言葉が実に気に入っています。ほとんど毎日、美乳を見て生活しています。最高!
お袋の清子さんの話では、私は母乳で育ちました。母乳だけでは飲む量が足りなかったので、父がドイツから特別に取り寄せたラクトーゲンと言う粉ミルクをいつも用意して、赤ん坊の私に飲ませていたそうです。授乳の時は、片手でお袋のパイパイをもみもみしていたそうです。そして、その揉む手に異常な技術があり、いやらしかったそうです。お袋は、私のその揉む手をピシャピシャとひっぱたいていたそうです。
小学校六年生頃、近所に住んでいた4歳くらいの小さな坊やと遊んでいると、28歳位の若いお母さんが時折、私と息子を見に来ます。目がパッチリした綺麗な女性で、夏には薄いワンピースのハワイアン風のムームーのような服を着ています。実に、服の生地が薄いので、桃色のパンツをはいているのが見えます。上のブラジャーをつけていないので、大きな乳房と乳首が見えます。そして、乳首の周りに濃い毛が生えているのも見えました。目のやり場に困ることも、たびたびです。誰にも言うことのできない気まずい11歳の夏の私でした。
もう一人、いつも焦らせられる隣の家のオバサンがいました。タケシ君のお母さんです。夏になると暑いので、上半身が裸です。すごい乳をしていました。少し垂れ気味でしたが、でかかったです。後ろに背負っている息子に、肩越しにホイと放り上げて授乳するのです。乳房がどでかく、長く伸びたカタチでした。そして、青緑の血管も通っているのも見えました。夏の暑い日に、上半身が裸でいつも挨拶を窓際で交わすのです。私は、たまらなく焦っていました。
中学校一年の頃、バスケット部に所属する先輩の女性がいました。放課後、友達と一緒に練習していました。ボールがバスケット部の練習する方角に飛んでゆき、ボールを拾ってくれた女性の先輩が腰を曲げて、前向きにかがんだので、アルファベットの「W」の形の胸がチラッと見えました。一瞬焦りました。でも、すごく綺麗な半円形の丸い乳房が見えたので興奮してしまいました。ボールが飛んでいくたびに、アルファベットの「W」の形が見えました。わざと私を焦らせようとしていたのでしょうか? 丸い大きなダブリューの字が見える回数が多すぎるよ。
8歳から12歳ぐらいまでの冬休みと夏休みは、東京の中延にいた祖母の照さんの家で暮らしていました。夏は、オバサンのおエンさんが素っ裸で行水をしていました。すごい、均整の取れた体です。実にしびれてしまいました。たぶん、私のことを男として見ていなかったのでしょう。『もう少し、水を持ってきてくれ』というのです。私は興奮して震えながら、井戸の水を汲んでせっせと運んでいました。美人の女性の裸を見て実に嬉しかったです。
高校一年の時にハーフのガールフレンドがいました。よくチューをしていました。でも、大人達のする行為はしませんでした。二人とも若かったので、できなかったのです。でも、着替えている時に美乳が見えました。真ッピンクの乳首が実に印象的でした。
1971年よりアメリカに留学して、成人学校にいたスエーデン人のお姉ちゃんとしばらく付き合っていました。彼女のオンナ友達二人が、スエーデンからサンフランシスコに訪問しました。ある日、三人を連れてクリフハウスの近くの浜辺にいったら、上半身素っ裸になりました。三人の金髪の姉ちゃん達が、はしゃいでいるところに騎馬警官が来て注意しました。『ここはアメリカなので、上半身のヌードは法律で禁止されている』と言うのです。もうちょっとで、逮捕されていたかもしれません。でも、今思い出すと、あの騎馬警官は注意していた時、笑顔をなんとなく浮かべていました。そうでしょう、美乳の三人を見たので仕方がないでしょう。
1990年代は、日本刀の修理修繕の技術を学ぶためによく訪日していました。私の妹の娘がちょうど20歳のころで、そのころ日本ではやっている言葉をたくさん教えてくれました。その中に巨乳がありました。姪は、巨乳よりもっとすごいのがあると言うのです。爆乳でした。でも、巨乳、爆乳は女性をさげすむ言葉のようなので、美乳と変えられたそうです。私は、この言葉が実に気に入っています。ほとんど毎日、美乳を見て生活しています。最高!