右腕の男達
なんか映画のタイトルのようで、実にかっこいいですね。英語では、Right Hand Manと言うそうです。影武者も、右腕の男の領域に入るのではないでしょうか。
1960年代の中頃から本格的に空手を習い始めました。渡米する前年の1970年に昼間と夜の師範代を勤め、私は横浜中華街に位置した空手の道場長の右腕の男になりました。先生より指圧も個人教授していただき、渡米にいたり、武道と指圧の技術はアメリカ生活に実にプラスになりました。
1971年に米国に来て、私も会社務めを1977年から1999年まで致しました。上司のフランクさんの右腕として、歯科技工士でサンフランシスコのダウンタウンで22年間働いていました。フランクさんの義兄は、働いていた会社の社長でした。ハワイ生まれの日系人です。彼等2人の奥様達が姉妹でした。ある程度の距離を置きましたが、家族付き合いもさせていただき、ドエライほどのボーナスももらっていました。上司のフランクさんから習ったことは、ものすごいほどの知識です。歯科技工士の技術だけではなくて、英会話(米会話)、テーブルマナー、アメリカの習慣、服装など種々多様です。特に男のAmerican Jokesをたくさん伝授してもらいました。日本の英会話学校では絶対に習えない言葉なども盛り込まれています。私も、日本の指圧の知識やインテリゲンチャの父親から習った漢方の知識、食事療法も伝授させていただきました。フランクさんに、若い19歳のガールフレンドができた時は、人肌脱いでいろいろと男女関係の秘密の奥義を伝授させてもらいました。世間で、言うところの『ゴマすり』です。70年代と80年代に優遇され、働いていた会社を99年に辞めました。
日本刀の刀鍛冶の弟子になったのが1992年です。修理修繕の仕事の承りの時は、師匠の通訳兼個人秘書として日本と米国の多州で活躍しました。日本での修業中は、政府の高官、警察の偉い人達ともご拝謁を許されました。偉い人々に日本刀を紹介するに至って、師匠は『アメリカでのたった一人の弟子で、私の右腕の男として働いてもらっています』と豪語するのです。まんざら、悪い気は致しませんでした。ある警察の偉い人が、米国より種子島火縄銃を輸入する時に、師匠を通じて一切の手続きやお世話をさせていただきました。実に光栄な仕事をさせていただきました。
自分の話はこれくらいにして、他の右腕の男達の話をさせていただきます。
ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーの右腕の男は、公にはSS親衛隊の国家指導者(ライヒス・ヒユーラー)ハインリッヒ・ヒムラーとなっていますが、実は秘書のマルティン・ボルマンでした。総統は1889年(明治22年)4月20日生まれです。ハインリッヒ・ヒムラーとマルティン・ボルマンの2人共1900年生まれです。大体、右腕の人は11歳か12歳年下です。驚いたことに、ヒトラー総統の生まれた家、アルプスに面したベルヒテスガーデンの豪邸が、実質的には秘書のマルティン・ボルマンが所有者でした。国家指導者ハインリッヒ・ヒムラーはひどい胃痛に悩まされて、指圧師のフェリックス・ケルシュテンから定期的に指圧マッサージを受けていました。しばらくすると、マッサージはハインリッヒ・ヒムラーに影響力を与えるようになり、たくさんの人々の命を救ったのです。この話を、私は8歳の時に読み、19世紀中頃から20世紀中頃までのドイツ史に興味を抱いたのです。ドイツ語も習い、渡米してすぐにナンパ目的でドイツ語を使っていました。
もう一人、とって置きの『右腕の男』の話があります。
その人の名前は『秋山ノスケ』さんです。桑港太鼓道場総長の田中精一さんの助っ人です。この方は、実によくできた『右腕の男』です。ノスケさんとは、サンフラシスコ日本町など、いろいろな場所で会います。ノスケさんを通して、田中先生個人用にかなりの日本刀を買っていただきました。紀伊国屋ビルにあるノスケさんの経営の日本食レストランで、我桑港刀剣協会の毎月の勉強会を一年ほど行っていました。生徒は、ノスケさんの日本食料理店を実に気に入っていました。厨房には、ノスケさんの右腕の男がいました。敏夫さんです。日本で修業した板前さんで、かなりの腕前です。
1970年代、ノスケさんは樽御輿のてっぺんで笛を吹き、音頭をとっていました。面白い話を2つしてくれました。ノスケさんはアソコが小さいので、ふんどしを着用する時お絞りのような小さな手ぬぐいを丸くして、股間に入れていたそうです。ブラジャーのパットのような物も使用したそうです。ある時、御輿のてっぺんでがんばっていると、異様な視線がノスケさんの尻のほうに感じられたそうです。下を見ると、ホモのオッサンがノスケさんの尻ッペタを、よだれを垂らしながら見入っていたそうです。(笑い)その話を、私に熱く語るノスケさんです。私は、思い出し笑いを度々経験します。私は命名をいたしました。『最高の右腕の男、ホモに片尻を覗かれた、ふんどし秋山』です。
ふんどし秋山さんに、最近また日本町で会いました。問題を抱えていました。日本人がバッシングされているので、私にも『加担してくれ』と申すのです。私はお約束いたしました。『また、樽御輿のてっぺんに、ふんどし秋山として復帰したら、講演会をつくって、募金を集めて手助けします』とハッキリお約束いたしました。ふんどし秋山さんのお尻を覗く『若い金髪の姉ちゃんの顔』が見たいこの頃の私です。
1960年代の中頃から本格的に空手を習い始めました。渡米する前年の1970年に昼間と夜の師範代を勤め、私は横浜中華街に位置した空手の道場長の右腕の男になりました。先生より指圧も個人教授していただき、渡米にいたり、武道と指圧の技術はアメリカ生活に実にプラスになりました。
1971年に米国に来て、私も会社務めを1977年から1999年まで致しました。上司のフランクさんの右腕として、歯科技工士でサンフランシスコのダウンタウンで22年間働いていました。フランクさんの義兄は、働いていた会社の社長でした。ハワイ生まれの日系人です。彼等2人の奥様達が姉妹でした。ある程度の距離を置きましたが、家族付き合いもさせていただき、ドエライほどのボーナスももらっていました。上司のフランクさんから習ったことは、ものすごいほどの知識です。歯科技工士の技術だけではなくて、英会話(米会話)、テーブルマナー、アメリカの習慣、服装など種々多様です。特に男のAmerican Jokesをたくさん伝授してもらいました。日本の英会話学校では絶対に習えない言葉なども盛り込まれています。私も、日本の指圧の知識やインテリゲンチャの父親から習った漢方の知識、食事療法も伝授させていただきました。フランクさんに、若い19歳のガールフレンドができた時は、人肌脱いでいろいろと男女関係の秘密の奥義を伝授させてもらいました。世間で、言うところの『ゴマすり』です。70年代と80年代に優遇され、働いていた会社を99年に辞めました。
日本刀の刀鍛冶の弟子になったのが1992年です。修理修繕の仕事の承りの時は、師匠の通訳兼個人秘書として日本と米国の多州で活躍しました。日本での修業中は、政府の高官、警察の偉い人達ともご拝謁を許されました。偉い人々に日本刀を紹介するに至って、師匠は『アメリカでのたった一人の弟子で、私の右腕の男として働いてもらっています』と豪語するのです。まんざら、悪い気は致しませんでした。ある警察の偉い人が、米国より種子島火縄銃を輸入する時に、師匠を通じて一切の手続きやお世話をさせていただきました。実に光栄な仕事をさせていただきました。
自分の話はこれくらいにして、他の右腕の男達の話をさせていただきます。
ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーの右腕の男は、公にはSS親衛隊の国家指導者(ライヒス・ヒユーラー)ハインリッヒ・ヒムラーとなっていますが、実は秘書のマルティン・ボルマンでした。総統は1889年(明治22年)4月20日生まれです。ハインリッヒ・ヒムラーとマルティン・ボルマンの2人共1900年生まれです。大体、右腕の人は11歳か12歳年下です。驚いたことに、ヒトラー総統の生まれた家、アルプスに面したベルヒテスガーデンの豪邸が、実質的には秘書のマルティン・ボルマンが所有者でした。国家指導者ハインリッヒ・ヒムラーはひどい胃痛に悩まされて、指圧師のフェリックス・ケルシュテンから定期的に指圧マッサージを受けていました。しばらくすると、マッサージはハインリッヒ・ヒムラーに影響力を与えるようになり、たくさんの人々の命を救ったのです。この話を、私は8歳の時に読み、19世紀中頃から20世紀中頃までのドイツ史に興味を抱いたのです。ドイツ語も習い、渡米してすぐにナンパ目的でドイツ語を使っていました。
もう一人、とって置きの『右腕の男』の話があります。
その人の名前は『秋山ノスケ』さんです。桑港太鼓道場総長の田中精一さんの助っ人です。この方は、実によくできた『右腕の男』です。ノスケさんとは、サンフラシスコ日本町など、いろいろな場所で会います。ノスケさんを通して、田中先生個人用にかなりの日本刀を買っていただきました。紀伊国屋ビルにあるノスケさんの経営の日本食レストランで、我桑港刀剣協会の毎月の勉強会を一年ほど行っていました。生徒は、ノスケさんの日本食料理店を実に気に入っていました。厨房には、ノスケさんの右腕の男がいました。敏夫さんです。日本で修業した板前さんで、かなりの腕前です。
1970年代、ノスケさんは樽御輿のてっぺんで笛を吹き、音頭をとっていました。面白い話を2つしてくれました。ノスケさんはアソコが小さいので、ふんどしを着用する時お絞りのような小さな手ぬぐいを丸くして、股間に入れていたそうです。ブラジャーのパットのような物も使用したそうです。ある時、御輿のてっぺんでがんばっていると、異様な視線がノスケさんの尻のほうに感じられたそうです。下を見ると、ホモのオッサンがノスケさんの尻ッペタを、よだれを垂らしながら見入っていたそうです。(笑い)その話を、私に熱く語るノスケさんです。私は、思い出し笑いを度々経験します。私は命名をいたしました。『最高の右腕の男、ホモに片尻を覗かれた、ふんどし秋山』です。
ふんどし秋山さんに、最近また日本町で会いました。問題を抱えていました。日本人がバッシングされているので、私にも『加担してくれ』と申すのです。私はお約束いたしました。『また、樽御輿のてっぺんに、ふんどし秋山として復帰したら、講演会をつくって、募金を集めて手助けします』とハッキリお約束いたしました。ふんどし秋山さんのお尻を覗く『若い金髪の姉ちゃんの顔』が見たいこの頃の私です。