劇的な日本刀の買い入れ(四振り)
ものすごい数の日本刀を1970年の末期以来から現在まで、いろいろな場所で買い入れました。そのうちのいくつかを紹介致します。
三尺の穂長の大身の槍
1980年の初めの頃、California StreetとDivisadero Streetの交差点近くに骨董品の店がありました。そこの店の持ち主兼マネージャーはロバート石田という高齢の日系人でした。その頃、石田さんは86歳。彼のお友達の近江さんが長い槍をお店に持参して、売ろうとしていました。サリナスに住んでいた近江さんはその頃92歳。そこへ、私が偶然に居合わせたのです。
二人の承諾を得て、長い槍を精査しました。全身が錆びで覆われていて、色は煤がかぶっているような真っ黒です。刃紋らしきものが所どころに見えていました。尋常の槍は、穂長が15センチから25センチ位ですが、この錆び身の槍は90センチ(36インチ)の穂長がありました。形状は平三角です。長い棒樋が通してあります。密教の梵字の不動明王と隠れキリシタンの刻印が入っています。槍の八割以上が焼け身だということを私は知っていましたが、こんなに長い槍は見たこともなかったので、希少価値があると判断し即座に買い入れました。近江さんの値段を値切ることなくして、2500ドルで買い入れました。
早速、家に持ち帰って剣兄の中西さんに電話。今朝、ちょっと長い槍を買ったので錆びを取り除く研磨をして下さるように頼みました。中西さんはしきりに長さはどのくらいかと聞くので、尋常の槍よりも少しだけ長いと言って次の日にイーストベイにある彼の武道具屋さんに持参いたしました。中西さんのびっくりした顔が忘れられません。手を二回程深く切りながらも、中西さんは三尺の穂長の大身の槍を一ヶ月ぐらいできれいに研磨してくれました。一回目に手を切った時は素手で研磨していて研磨を中止。一週間待っていたそうです。二回目に手を切った時は、厚いタオルを巻いていたそうですが、タオルが先に切れ、血がにじんで出てしまい、切れたタオルの下で手が切れたそうです。古い槍、特に400年以上経っている槍はさすがに切れるなと痛感したそうです。
それから三ヶ月ぐらい経って私は、この槍だけのために製作した密教法具のVajraの形状の柄を茎の部分に取り付けました。下地の木台は、日本から取り寄せた本物の朴の木を使いました。朴の木の周りは、ある秘密の材料で作り銀と鉄のような色を塗りました。秘密の材料を金属性らしく見せています。展示会場を訪れる人は、その槍は重いのですかと常時聞いてきます。私はにんまりと笑っているだけです。ど素人や非会員に詳細を説明する必要はどこにもないのです。生徒の何人かには、ちゃんとどのような材料で製作したのかを教えてあげました。
調べたところ、私の秘蔵の3尺(36インチ)の槍は世界で三番目に長い槍でした。安土桃山時代(1573-1623)頃に製作されました。米国では一番長い槍です。私の槍よりも長いものは日本に二振り存在します。一番長い槍は伊賀忍者の上忍の服部半蔵が江戸時代初期に使用していたもので、穂先が折れていますが長さは43インチです。折れる前の穂長は5尺(60インチ)でした。二番目に長い槍は39インチです。
1992年には私が三尺の大身の槍を再研磨を致し、肌起しも致し、地紋と波紋をよりよく綺麗に見えるように、京都産の内曇地砥と刃砥で処理し、展示会場に誇らしげに飾っています。3尺の穂長の大身の槍と三振りの尋常の穂長の槍も一緒に飾っています。長さの比較のためです。
二人の承諾を得て、長い槍を精査しました。全身が錆びで覆われていて、色は煤がかぶっているような真っ黒です。刃紋らしきものが所どころに見えていました。尋常の槍は、穂長が15センチから25センチ位ですが、この錆び身の槍は90センチ(36インチ)の穂長がありました。形状は平三角です。長い棒樋が通してあります。密教の梵字の不動明王と隠れキリシタンの刻印が入っています。槍の八割以上が焼け身だということを私は知っていましたが、こんなに長い槍は見たこともなかったので、希少価値があると判断し即座に買い入れました。近江さんの値段を値切ることなくして、2500ドルで買い入れました。
早速、家に持ち帰って剣兄の中西さんに電話。今朝、ちょっと長い槍を買ったので錆びを取り除く研磨をして下さるように頼みました。中西さんはしきりに長さはどのくらいかと聞くので、尋常の槍よりも少しだけ長いと言って次の日にイーストベイにある彼の武道具屋さんに持参いたしました。中西さんのびっくりした顔が忘れられません。手を二回程深く切りながらも、中西さんは三尺の穂長の大身の槍を一ヶ月ぐらいできれいに研磨してくれました。一回目に手を切った時は素手で研磨していて研磨を中止。一週間待っていたそうです。二回目に手を切った時は、厚いタオルを巻いていたそうですが、タオルが先に切れ、血がにじんで出てしまい、切れたタオルの下で手が切れたそうです。古い槍、特に400年以上経っている槍はさすがに切れるなと痛感したそうです。
それから三ヶ月ぐらい経って私は、この槍だけのために製作した密教法具のVajraの形状の柄を茎の部分に取り付けました。下地の木台は、日本から取り寄せた本物の朴の木を使いました。朴の木の周りは、ある秘密の材料で作り銀と鉄のような色を塗りました。秘密の材料を金属性らしく見せています。展示会場を訪れる人は、その槍は重いのですかと常時聞いてきます。私はにんまりと笑っているだけです。ど素人や非会員に詳細を説明する必要はどこにもないのです。生徒の何人かには、ちゃんとどのような材料で製作したのかを教えてあげました。
調べたところ、私の秘蔵の3尺(36インチ)の槍は世界で三番目に長い槍でした。安土桃山時代(1573-1623)頃に製作されました。米国では一番長い槍です。私の槍よりも長いものは日本に二振り存在します。一番長い槍は伊賀忍者の上忍の服部半蔵が江戸時代初期に使用していたもので、穂先が折れていますが長さは43インチです。折れる前の穂長は5尺(60インチ)でした。二番目に長い槍は39インチです。
1992年には私が三尺の大身の槍を再研磨を致し、肌起しも致し、地紋と波紋をよりよく綺麗に見えるように、京都産の内曇地砥と刃砥で処理し、展示会場に誇らしげに飾っています。3尺の穂長の大身の槍と三振りの尋常の穂長の槍も一緒に飾っています。長さの比較のためです。
筑紫薙刀
この薙刀は1999年の秋に日本を訪問中に見つけました。東京の鎧のお店です。店長の千木良さんは、私が来店するといつも親切丁寧に鎧関係のことを教えてくれていました。店の端っこに風変わりな薙刀があるのを発見しました。直ぐに何物かが分かりましたが、千木良さんにあれは何ですかと問いました。答えが直ぐに戻ってきました。「あの薙刀は、先週の水曜日に九州から送られて来たもので売り物です」とおっしゃるので、値段を聞いて即座に買い入れました。23万円だというので、現金を渡すと3万円返してくれました。「前回一緒に来店した息子さんに、土産でも買っていってあげなさい」とやさしく言ってくれました。
千木良さんの鎧の店には毎回訪日の時に来店しています。いろいろな日本刀、鎧一式、鍔、小道具などを買わせていただき、1992年からずっとお世話になっています。生徒も何人かお店に連れて行ったこともあります。たくさんの珍品の買い物を致しました。鎧の店には常時、すごい数の鎧、兜、日本刀関係の品物が置いてあります。東京には、地方からたくさんの日本刀関連のもの物が送られて来ます。宝庫を見ているようです。
さて、九州薙刀を買い上げた後、早速登録証と一緒に川崎の実家へ持ち帰りました。簡単な研磨で肌起しも致し、波紋と地紋をより見えるように京都産の鳴滝地砥と刃砥で研磨しました。それから、写真をたくさん撮って渋谷に在住する世界一の日本刀鑑定家の得能一夫先生のところへ持参して鑑定書を発行してもらう手続きを致しました。得能先生が鑑定書を発行してくれたら、東京在住の剣友にサンフランシスコへ航空便で薙刀と鑑定証書を送ってもらうことを頼み帰米致しました。この剣兄は得能先生の生徒の一人です。それから2年後の2001年に九州薙刀は米国の地を無事に踏んだのです。
この九州薙刀は筑紫薙刀(ちくしなぎなた)とか鉈薙刀(なたなぎなた)とも呼ばれ珍品です。米国に一振りしかありません。木の柄が挿入されるリング状の鉄が、薙刀の茎の斜め上のほうについています。製作年代は文明(1469-1486)頃です。これは、室町時代の中期頃です。江戸時代の初期と後期に、この異風な形状の九州薙刀が製作されました。もちろん模写です。英語で言うとレプリカ薙刀です。本で見ることしかできないこの薙刀は希少価値があります。現存の筑紫薙刀はきわめて珍しく、得能先生もびっくり致しておりました。大威張りできる日本刀です。この九州薙刀も我桑港刀剣博物館の看板の一振りになりました。
千木良さんの鎧の店には毎回訪日の時に来店しています。いろいろな日本刀、鎧一式、鍔、小道具などを買わせていただき、1992年からずっとお世話になっています。生徒も何人かお店に連れて行ったこともあります。たくさんの珍品の買い物を致しました。鎧の店には常時、すごい数の鎧、兜、日本刀関係の品物が置いてあります。東京には、地方からたくさんの日本刀関連のもの物が送られて来ます。宝庫を見ているようです。
さて、九州薙刀を買い上げた後、早速登録証と一緒に川崎の実家へ持ち帰りました。簡単な研磨で肌起しも致し、波紋と地紋をより見えるように京都産の鳴滝地砥と刃砥で研磨しました。それから、写真をたくさん撮って渋谷に在住する世界一の日本刀鑑定家の得能一夫先生のところへ持参して鑑定書を発行してもらう手続きを致しました。得能先生が鑑定書を発行してくれたら、東京在住の剣友にサンフランシスコへ航空便で薙刀と鑑定証書を送ってもらうことを頼み帰米致しました。この剣兄は得能先生の生徒の一人です。それから2年後の2001年に九州薙刀は米国の地を無事に踏んだのです。
この九州薙刀は筑紫薙刀(ちくしなぎなた)とか鉈薙刀(なたなぎなた)とも呼ばれ珍品です。米国に一振りしかありません。木の柄が挿入されるリング状の鉄が、薙刀の茎の斜め上のほうについています。製作年代は文明(1469-1486)頃です。これは、室町時代の中期頃です。江戸時代の初期と後期に、この異風な形状の九州薙刀が製作されました。もちろん模写です。英語で言うとレプリカ薙刀です。本で見ることしかできないこの薙刀は希少価値があります。現存の筑紫薙刀はきわめて珍しく、得能先生もびっくり致しておりました。大威張りできる日本刀です。この九州薙刀も我桑港刀剣博物館の看板の一振りになりました。
②
菊池槍
2004年の10月にE-Bayのオークションで見つけました。朝の九時頃でした。広島県の売人が錆身の短刀形の菊池槍を売りに出していたのです。穂長は8センチで、茎長は22センチです。茎は生ぶ(うぶ)でした。この頃には、E-Bayに新しい方式が導入されていて種々の日本刀が売られていました。Buy-it-nowと呼ばれる新しい売却方式で顧客が即座に品物を買えるのです。この菊池槍のオークションは420ドルからはじまっていましたが、Buy-it-nowで460ドルでした。早速私は460ドルで珍しい菊池槍を買わせていただきました。
錆身の菊池槍が広島県から送られて来てサンフランシスコの地を踏み、直ぐに錆を落とし下地研磨を施し、鎺金を工作して仕上げ研磨をして白鞘を製作しました。全過程の写真を撮りました。その写真は、私の修理修繕の仕事を完璧に援助しています。新しい顧客が来たら、必ず修理修繕前と修理修繕後の写真を見せています。また、顧客の日本刀の写真も常時撮ってあげています。人間と同じように、日本刀でも、整形前(研磨前)と整形後(研磨後)の容姿、姿、形が変わるのです。比較をするのに、これらの写真はすごく役立ちます。また、顧客の皆様が自分の日本刀に保険を掛けるときのお手伝いもこれらの写真を使用して行っています。
菊池槍は九州の肥後(熊本県)で製作され、ほとんどの菊池槍は改ざんされ、単なる短刀に姿を変えています。しかし、重ねが厚く、やはり変身前の面影が少しあります。文献に菊池槍のことが載っています。御紹介致します。南北朝の初期、菊池武光の発案で徒歩集団戦に合致させるために、鵜の首造りの長さ15、6センチの小振りな槍が当時の延寿鍛冶(えんじゅかじ)によって数多く製作されました。現在は茎を短く切って、短刀として珍重されています。焼き刃はみな直ぐ刃の仕立てで、これに延寿鍛冶の特有な小沸(こにえ)が付き、地肌は杢目肌(もくめはだ)がよく詰んで美しく可愛い作柄です。
現存の生ぶの茎の菊池槍は希少価値が多大にあります。1992年に、あるアメリカ人の日本刀収集家が菊池槍を持っていたので、買い入れを申しでると断られました。あの頃、長い柄と石突きのついた槍は800ドル前後で取引されていました。私は、その倍近くの1500ドルをオファーしたのですが断られました。茎が短くされた菊池槍は、八振りほど桑港刀剣博物館に所蔵していましたが、茎が短くされていない菊池槍はありませんでした。今回の菊池槍は掘り出し物の領域に入ります。この菊池槍も桑港刀剣博物館の看板の一振りに加わりました。万歳。
錆身の菊池槍が広島県から送られて来てサンフランシスコの地を踏み、直ぐに錆を落とし下地研磨を施し、鎺金を工作して仕上げ研磨をして白鞘を製作しました。全過程の写真を撮りました。その写真は、私の修理修繕の仕事を完璧に援助しています。新しい顧客が来たら、必ず修理修繕前と修理修繕後の写真を見せています。また、顧客の日本刀の写真も常時撮ってあげています。人間と同じように、日本刀でも、整形前(研磨前)と整形後(研磨後)の容姿、姿、形が変わるのです。比較をするのに、これらの写真はすごく役立ちます。また、顧客の皆様が自分の日本刀に保険を掛けるときのお手伝いもこれらの写真を使用して行っています。
菊池槍は九州の肥後(熊本県)で製作され、ほとんどの菊池槍は改ざんされ、単なる短刀に姿を変えています。しかし、重ねが厚く、やはり変身前の面影が少しあります。文献に菊池槍のことが載っています。御紹介致します。南北朝の初期、菊池武光の発案で徒歩集団戦に合致させるために、鵜の首造りの長さ15、6センチの小振りな槍が当時の延寿鍛冶(えんじゅかじ)によって数多く製作されました。現在は茎を短く切って、短刀として珍重されています。焼き刃はみな直ぐ刃の仕立てで、これに延寿鍛冶の特有な小沸(こにえ)が付き、地肌は杢目肌(もくめはだ)がよく詰んで美しく可愛い作柄です。
現存の生ぶの茎の菊池槍は希少価値が多大にあります。1992年に、あるアメリカ人の日本刀収集家が菊池槍を持っていたので、買い入れを申しでると断られました。あの頃、長い柄と石突きのついた槍は800ドル前後で取引されていました。私は、その倍近くの1500ドルをオファーしたのですが断られました。茎が短くされた菊池槍は、八振りほど桑港刀剣博物館に所蔵していましたが、茎が短くされていない菊池槍はありませんでした。今回の菊池槍は掘り出し物の領域に入ります。この菊池槍も桑港刀剣博物館の看板の一振りに加わりました。万歳。
相州伝の大太刀
茎に表銘と裏銘の存在する太刀がE-Bayオークションにでていました。2005年頃でした。表銘は「正宗二十一代孫相模国綱広」です。裏銘は明治17年8月吉日です。太刀の上部は、薄い錆びで覆われていて、刃紋がところどころに見えていました。最終的に買い入れた値段は4000ドルでした。
サンフランシスコに太刀がUS Mailで到着し、私は早速、刀身と茎の精査を致しました。研磨は鍛冶押しがされていました。鍛冶押しとは、鍛冶が簡単に行う研磨のことです。刃の最下部は刃区(はまち)と呼ばれていますが、製作当時のままで、生ぶ刃(うぶば)が見てとれました。換言して言えば、この太刀は一度も研磨されていないのです。鍛冶が簡単な研磨を施し、研磨師には送っていず、どこかの神社仏閣に奉納されていたのをアメリカ兵の誰かが戦後直ぐにアメリカに土産ものとして持参したのでしょう。拵えもなく、鎺金もなく、すっぱだかでサンフランシスコに参ったのです。刃紋は大湾れ(おおのたれ)で、刃長は76センチです。身幅は4センチです。切り先はぐっと伸びて南北朝期の太刀の様式です。
2009年の4月に、日本政府で認可されている九州宮崎県在住の刀鍛冶の先生がサンフランシスコにしばらく滞在し、相州綱広の太刀を吟味してもらいました。先生はこの鍛冶のお弟子さんを知っているそうで、こんな素晴らしい太刀が米国にあるなんて思ってもいなかったと申していました。
私はこの太刀がすごく好きになり、最近大きな鎺金を製作しました。相州の大太刀さんは喜んでくれていると思います。最近切り先の片側だけを展示用として見せるための研磨を致しました。切り先き付近の返りの刃紋が実によく見えてきました。そのうち時間を見つけ全身を研磨するつもりです。白鞘も新規に制作しますよ。この長く、ずしりと重い極太な太刀は展示会場を訪れる人びとに超人気です。常時話題にあがり、たくさんの太刀関連の質問責めです。桑港刀剣会員達には、手に持たせて拝見させてあげることもあるんです。この大太刀も我桑港刀剣博物館の看板の一振りになりました。
サンフランシスコに太刀がUS Mailで到着し、私は早速、刀身と茎の精査を致しました。研磨は鍛冶押しがされていました。鍛冶押しとは、鍛冶が簡単に行う研磨のことです。刃の最下部は刃区(はまち)と呼ばれていますが、製作当時のままで、生ぶ刃(うぶば)が見てとれました。換言して言えば、この太刀は一度も研磨されていないのです。鍛冶が簡単な研磨を施し、研磨師には送っていず、どこかの神社仏閣に奉納されていたのをアメリカ兵の誰かが戦後直ぐにアメリカに土産ものとして持参したのでしょう。拵えもなく、鎺金もなく、すっぱだかでサンフランシスコに参ったのです。刃紋は大湾れ(おおのたれ)で、刃長は76センチです。身幅は4センチです。切り先はぐっと伸びて南北朝期の太刀の様式です。
2009年の4月に、日本政府で認可されている九州宮崎県在住の刀鍛冶の先生がサンフランシスコにしばらく滞在し、相州綱広の太刀を吟味してもらいました。先生はこの鍛冶のお弟子さんを知っているそうで、こんな素晴らしい太刀が米国にあるなんて思ってもいなかったと申していました。
私はこの太刀がすごく好きになり、最近大きな鎺金を製作しました。相州の大太刀さんは喜んでくれていると思います。最近切り先の片側だけを展示用として見せるための研磨を致しました。切り先き付近の返りの刃紋が実によく見えてきました。そのうち時間を見つけ全身を研磨するつもりです。白鞘も新規に制作しますよ。この長く、ずしりと重い極太な太刀は展示会場を訪れる人びとに超人気です。常時話題にあがり、たくさんの太刀関連の質問責めです。桑港刀剣会員達には、手に持たせて拝見させてあげることもあるんです。この大太刀も我桑港刀剣博物館の看板の一振りになりました。