サンフランシスコのチンチン電車
サンフランシスコ市の名物の一つは、世界中に知れ渡っているチンチン電車です。観光客なら、誰でも一度は乗車している乗り物です。アメリカではケーブルカーと呼ばれています。電車の下にケーブルが常時走っていて、グリップマンが操作しています。現在、三本の線路がサンフランシスコ市内を走っています。南北に走るパウエルーメイソン線(#59)、南北に走るパウエルーハイド線(#60)の二本は、マーケット・ストリートから発進して、中華街で二手に分かれ、メイソン線は中華街の近くが終点です。ハイド線は有名なフィッシャーマンワーフが終点です。ここから金門橋が見られます。三本目の線路は、東西に走るカリフォルニア線(#61)です。エンバーカデロセンターから、カリフォルニア・ストリートとヴァンネス・ストリートまで走っています。南北線のケイブルカーは長さが8.4メートルで、幅が、2.4メートルです。重さは7000キロあります。進行方向の片側が開いています。東西線のケイブルカーは長さが9.4メートルで、幅が2.4メートルです。重さは7200キロです。前と後ろの両側が開いています。ケーブルカーの歴史は長く、二、三度閉鎖されています。1984年からまた運行開始され、そのときから修理修復などされて今日に至っています。
私は、1977年の夏より矯正歯科医師の元で歯科技工士(デンタルテクニシャン)になって仕事をしていました。ランチタイムは、ケーブルカーに乗ってサンフランシスコの中華街に昼食に行っていました。5分くらいの乗車で中華街に到着です。乗車賃金は25セントでしたが、私はほとんど只で乗車していました。当時、桑港剣術道場の生徒がグリップマンをしていて、いつも只で乗せてくれていました。ケーブルカーにはいつも飛び乗りです。一年間近く、只で乗らせていただきました。一年後には、会社から私個人の駐車場を用意してもらって、車を自宅からサンフランシスコ・ダウンタウンに毎日運転していました。会社の荷物を運搬していました。
ケーブルカーには、もう飛び乗りはしなくなりましが、車でその横を走って、中華街にランチに行っていました。ケーブルカーには特別なベルが装着されていて、運転手が手でチンチンと鳴らしています。その音を聞くと、ケーブルカーが来たのだなと分かります。マーケット・ストリート、カリフォルニア・ストリート、中華街近くにある多くの通りから、チンチン電車のベルの音が聞こえます。なぜか哀愁と安らぎを感じます。ベルの合間には、ゴロゴロゴロと滑るような音が聞こえ、偉大なものがまかり通っているとも感じます。
1990年代の終わり頃、長男が9歳のときに東京ディズ二ーランドに連れて行ってやりました。クラスメートなどは、フロリダのディズ二ーランド、アナハイムのディズ二ーランドには行ったことはあるのですが、東京ディズ二ーランドを訪問したのは息子だけでした。帰米後に、学校で“えばれ”と命令していました。訪日のある日の午後、池袋の地下レストランでどでかい海老を息子と食べていました。私は日本語で話していましたが、息子の返事は英語です。変な会話と思った従業員のオバサンと若い姉ちゃん二人が質問してきました。「どこから来たんですか?」「言ったとしても、信用されないよ」と答えましたが、「どこですか?」と再び聞くので答えてあげました。我々がサンフランシスコから来たと知ると、二人はびっくりして、どもりながら「ああ、あのちんちん電車の走っているところね」と答えるのです。「そうです。すばらしい町ですよ。世界中に知られています。知らない人はまずいません。座頭市ぐらいです。人生に一度は訪れたい町です。いつもそこで、家族と一緒に楽しく暮らしています。この息子もサンフランシスコで生まれたんですよ」。そんな調子で会話が進みました。良い思い出です。
サンフランシスコは、多分私の死に場所です。
私は、1977年の夏より矯正歯科医師の元で歯科技工士(デンタルテクニシャン)になって仕事をしていました。ランチタイムは、ケーブルカーに乗ってサンフランシスコの中華街に昼食に行っていました。5分くらいの乗車で中華街に到着です。乗車賃金は25セントでしたが、私はほとんど只で乗車していました。当時、桑港剣術道場の生徒がグリップマンをしていて、いつも只で乗せてくれていました。ケーブルカーにはいつも飛び乗りです。一年間近く、只で乗らせていただきました。一年後には、会社から私個人の駐車場を用意してもらって、車を自宅からサンフランシスコ・ダウンタウンに毎日運転していました。会社の荷物を運搬していました。
ケーブルカーには、もう飛び乗りはしなくなりましが、車でその横を走って、中華街にランチに行っていました。ケーブルカーには特別なベルが装着されていて、運転手が手でチンチンと鳴らしています。その音を聞くと、ケーブルカーが来たのだなと分かります。マーケット・ストリート、カリフォルニア・ストリート、中華街近くにある多くの通りから、チンチン電車のベルの音が聞こえます。なぜか哀愁と安らぎを感じます。ベルの合間には、ゴロゴロゴロと滑るような音が聞こえ、偉大なものがまかり通っているとも感じます。
1990年代の終わり頃、長男が9歳のときに東京ディズ二ーランドに連れて行ってやりました。クラスメートなどは、フロリダのディズ二ーランド、アナハイムのディズ二ーランドには行ったことはあるのですが、東京ディズ二ーランドを訪問したのは息子だけでした。帰米後に、学校で“えばれ”と命令していました。訪日のある日の午後、池袋の地下レストランでどでかい海老を息子と食べていました。私は日本語で話していましたが、息子の返事は英語です。変な会話と思った従業員のオバサンと若い姉ちゃん二人が質問してきました。「どこから来たんですか?」「言ったとしても、信用されないよ」と答えましたが、「どこですか?」と再び聞くので答えてあげました。我々がサンフランシスコから来たと知ると、二人はびっくりして、どもりながら「ああ、あのちんちん電車の走っているところね」と答えるのです。「そうです。すばらしい町ですよ。世界中に知られています。知らない人はまずいません。座頭市ぐらいです。人生に一度は訪れたい町です。いつもそこで、家族と一緒に楽しく暮らしています。この息子もサンフランシスコで生まれたんですよ」。そんな調子で会話が進みました。良い思い出です。
サンフランシスコは、多分私の死に場所です。