カウパレスのガンショウで見つかった掘り出し物
1980年ごろより、Daly Cityに位置するカウパレスで2ヶ月毎に開催されているガンショウに定期的に通い始め、種々の拳銃やライフルを拝見させてもらいました。2、3の売人が日本刀をテーブルに並べて売っていたのを発見しました。値段がでたらめで訳が判らない状態でした。それらの日本刀は吟味した後、値段が妥当であればすぐにでも買い上げていました。中には、高級な日本刀も出てくるので、このガンショウから買い上げる日本刀の数が、かなりのものになりました。
私も1985年から、他のディーラーと混じってテーブルを出し始め、日本刀を展示し、日本刀を勉強したい会員を募集しました。茎にある99%の銘が読める私は、展示会場でたくさん出てくる日本刀の鑑定を頼まれたりしていました。
「無料鑑定致します」「日本刀を現金で買います」と唱った大きな二つのサインが大当たりでした。私の小さな日本刀展示会場に、たくさんの人々と日本刀などを集めることができました。この頃の私は、日本刀を買うためだけに、ガンショウでテーブルを出していたと言っても過言ではありません。一日で、最高42振りの日本刀を買ったこともあります。募集した会員や友達も徐々に増え続け今日に至っています。カウパレスのガンショウは、私の日本刀収集の最良の場所でもありました。買い上げた日本刀の例を、少し挙げてみます。
【例1】
1981年。ガンショウの会場を歩いていると、長寸刀の茶色の皮をかぶせた白鞘入りの刀が壁に斜めに立てかけてあるのが目に入りました。75歳位に見えた高齢の米国人の爺さんにとぼけながら「そこにある長いものは何だい?」とそっけなく尋ねると、近所に住んでいる友人が「このでかい日本のナイフ」で四本の指を深く切って、先週末に病院に担ぎ込まれたそうで、あまりの恐ろしさにこのでかいナイフをガンショウで売ってくれと頼まれたそうでした。小さな価格表示の札が付いていて、「299ドル」と読むことができました。早速現金200ドルを出して値切ろうとしたのですが「300ドルでどうか?」と値段が1ドル値上がりしました。私は、即座にもう一枚の100ドル札を出して、結局、爺さんのいい値で南北朝時代(1334-1389年)に作られた重要美術品の日本刀を買い上げるのに成功したのです。
錆身だった刀身は研磨で綺麗になり、新しい鞘も工作し、鞘塗りもして新規の柄糸も巻いて、鍔もとり付けて展示しています。柄は2尺以上もある特別注文で長巻です。目貫は掟を破って、魚の形のを四個柄糸の下に付けてみました。この660年の古刀の造り込みは異風で、鵜の首造りです。どでかい短刀を見ているようです。
【例2】
1995年の4月。日本から修理修繕の修行をして帰米した私は、5月の始めのガンショウに参加しました。土曜日と日曜日の両日に備えて、金曜日の夕方にテーブルの設置が終了し、一般客のいないディ-ラーだけがいる会場で南カリフォルニアから来た日系人のウォレスさんのテーブルを訪れました。世間話をし、彼の持参した50振りほどの日本刀を吟味させて頂きました。その中に、刃長2尺1寸の1570年代頃(室町時代後期)の打ち刀(うちがたな)を発見しました。表側が鎬造りで、裏側が平造りの体配だったので「また米国人のど素人が、グラインダーで刀身を削って改ざんをしたな」と思いました。その打ち刀を再びテーブルに置いて、他の日本刀を拝見し始めると、その打ち刀が私を呼んでいるような声を出したので、もう一度その打ち刀を手にとって精査しました。なんとそれは、生茎(うぶなかご)で裏表の造りこみが全く違ってできていたのです。鎺金もそのように作られていました。
早速ウォレスさんと交渉して、850ドルの価格を下げてもらい600ドルで買い上げました。これは珍刀です。過去に見たことがなく、日本刀の本の中で写真が記載されていたのを見たことがあるだけでした。時代鑑定は、430年前に製作された打ち刀でした。地域鑑定は、備前(岡山県)か四国近辺です。刀匠は備前長船勝光または備前長船祐定あるいは阿波の海部鍛治の氏某です。薄ら錆身であったので、研磨をして綺麗にし特別の肌起こしの秘術も施しました。新規の白鞘も作製し、桑港刀剣協会の日本刀展示の時の看板の一つにさせていただきました。
【例3】
1997年の冬。9回にわたる修理修繕を習うための訪日を終えて帰米し、カウパレスのガンショウに参加しました。桑港剣術道場の生徒と桑港日本刀協会員が金曜日のテーブル設置を手伝ってくれ、終了後にウォレスさんのテーブルを訪問しました。
一通り日本刀を吟味した後、刀の拵え金具を見ているとウォレスさんがテーブルの下より、最近手に入れた長い刀を見せてくれました。銘は肥前国忠吉で、日本刀業界では五字忠(ごじただ)と呼ばれ優作刀です。価格は2600ドルでしたが、ウォレスさんは私がいつも買ってくれると言ってくれ、2300ドルにまけてもらい即座に買いました。他の刀剣関係の連中は、「偽名」と言っていたというので、買うときは「その偽名の刀を買わせてくれ」と言ったのを今でも覚えています。正真銘バリバリの刀を見て偽名と断定するのは最悪です。ど素人のすることです。銘が読めなくて漢字の意味がわからないど素人は、実に実にかわいそうです。
この肥前刀は初代忠吉が製作したもので、1990年代のあの頃は日本で1千万円で売れていたものでした。刃長は2尺4寸5分あり、切り先は伸びて身巾もたっぷりあり、作位は最上大業物です。日本一切れる刀です。鎺金は銀無垢で、豊臣家の家紋が彫ってありました。古い白鞘の鞘の部分には鞘書きがあり、柄がなくなっていました。この刀は、実を申しますと私に修理修繕を教えてくれている谷口師匠に贈り物として買い入れました。東京にいる師匠に電話で、五字忠を入手したことを告げました。後日、写真を撮って日本へ送りました。写真が日本に着き次第、師匠はあわてて電話をしてきて催促です。一週間後に贈ってあげました。大喜びしたそうです。年が明けて、私もまた修理修繕の勉強のため師匠の豪邸を訪れました。例の肥前国忠吉の正真刀を拝見したいとせがむと、もうあれは売ってしまったとのことでした。買い手は、ある政府の高官で価格は970万円で売ったそうです。修理修繕はお手の物の師匠です。大金が入ったと大喜びでした。「また五字忠を米国で見つけてくれ」と命令が下りました。刀は見つかりませんでしたが、師匠が他界してから脇差が見つかったので、喜ぶ顔が見られませんでした。
【例4】
2003年の夏。村正の妖刀の本を読んでいた私は、こんな刀があったらいいなあと思っていました。いつものように、展示用のテーブルの設置を金曜日の午後3時頃に終えて、日系人のウォレスさんのテーブルを訪問しました。いつものように刀剣類を吟味して、良さそうなのを買い上げようとしてしていた時、柄がない鞘だけの刃長2尺2寸の刀を発見。茎が丸見えだったのですぐに形だけで相州伝法の鍛治の作製と判断できました。銘は見えませんでしたが、消された後がありました。鞘を抜いて上半身を精査しました。刃紋は箱乱れで、ところどころにぐの目乱れがあり、裏表の刃紋が揃っていました。切り先は伸びて、南北朝時代風の影響が見られました。2000ドルの値段を、値切って1300ドルで買いました。夢に見ていた妖刀村正の刀を持てることになったのです。実に驚きです。私の日本刀の師匠であった得能一男(とくのかずお)先生によれば、村正は室町時代に五代続いて存在し、銘を見ただけでは代を鑑定できないそうで、他の鑑定の要点を吟味しなくてはだめだそうです。得能先生は、私の日本刀修理修繕の師匠の親友でした。この村正の刀も、桑港刀剣協会の看板のひとつになりました。
【例5】
2009年の11月7日と8日の両日。馴染み米国人ディーラーのクリスさんが金曜日の午後にテーブル設置をしていると、薄錆身で注文打ちの刃長2尺2寸5分の寛文時代(1661-1673年)の刀を持参。直ぐに茎先(なかごさき)の形と刃紋のパターンより「加賀の清光の作」と鑑ぜられました。最初は、慶長時代(1596-1615年)の新刀と思いましたが、反りの具合と体配より、やはり、時代鑑定は寛文でした。物打ちの辺に少し曲がりと捻りがあり、その場で私が修理しました。次の日の土曜日、内弟子のスティーブさんが、ガンショウの会場でこの刀の薄錆を落としてくれて、刃紋がもっと良く見えるようになりました。他の生徒や会員との話の種にもなり、会場が相当盛り上がりました。研磨の工程を見学していた人々から、質問もたくさんありました。研磨のデモを見て会員になった人も出たぐらいです。日曜日はクリスさんに刀を見せて、綺麗になった日本刀が喜んでいると告げました。もう少し、この日本刀の話を聞いてみると、2009年の10月に南カリフォルニアで開催された小さなガンショウで見つけたとのことで、海軍装の柄と鎺金しか付いていなかったそうでした。私は、この刀を買いたいことを告げると、1000ドルなら売ると言うので、即答でOKを出して買い入れました。
一週間後には鎺金製作が終わり、下地研磨も完了。仕事の合い間に少しずつ仕上げ研磨も施し、2010年の6月に脇差の清光と大小の対の黒塗り鞘も作製し、日本刀展示の看板の一つになりました。そのうち、江戸時代の大小金具を見つけて、本物の大小拵えもつけるつもりです。
余談ですが、カウパレスに四、五人の日本刀ディーラーが1985年頃からテーブルを出して日本刀を売っていましたが、かなり悪質なので、私は剣術の生徒と桑港日本刀協会員に警告を与えていました。日本刀の値段も高く、疵のある刀、脇差、短刀等を売るので、ガンショウを訪れる客も付かず、悪徳ディーラーはだんだんと商売も成り立たず、消滅してしまいました。残る二人はウォレスさんとクリスさんだけです。この二人は、奥さんらと近くのレストランにランチや夕食に行ったりしています。日本刀の修理修繕の仕事もかなりいただきました。刀の茎にある銘も読んでやっています。この二人のディーラーから掘り出し物が相当数出ました。カウパレスのガンショウを潰す計画もあったのですが、州知事がサインしませんでした。10年ぐらいは、このガンショウは継続しそうです。日本刀の掘り出し物まだまだ出てくるでしょうね。合掌する私です。
カウパレスのガンショウでは、年間5、6振りの堀出し物の日本刀が見つかります。一般客のいない金曜日の午後と夕方が発見の最良の時間帯です。
私も1985年から、他のディーラーと混じってテーブルを出し始め、日本刀を展示し、日本刀を勉強したい会員を募集しました。茎にある99%の銘が読める私は、展示会場でたくさん出てくる日本刀の鑑定を頼まれたりしていました。
「無料鑑定致します」「日本刀を現金で買います」と唱った大きな二つのサインが大当たりでした。私の小さな日本刀展示会場に、たくさんの人々と日本刀などを集めることができました。この頃の私は、日本刀を買うためだけに、ガンショウでテーブルを出していたと言っても過言ではありません。一日で、最高42振りの日本刀を買ったこともあります。募集した会員や友達も徐々に増え続け今日に至っています。カウパレスのガンショウは、私の日本刀収集の最良の場所でもありました。買い上げた日本刀の例を、少し挙げてみます。
【例1】
1981年。ガンショウの会場を歩いていると、長寸刀の茶色の皮をかぶせた白鞘入りの刀が壁に斜めに立てかけてあるのが目に入りました。75歳位に見えた高齢の米国人の爺さんにとぼけながら「そこにある長いものは何だい?」とそっけなく尋ねると、近所に住んでいる友人が「このでかい日本のナイフ」で四本の指を深く切って、先週末に病院に担ぎ込まれたそうで、あまりの恐ろしさにこのでかいナイフをガンショウで売ってくれと頼まれたそうでした。小さな価格表示の札が付いていて、「299ドル」と読むことができました。早速現金200ドルを出して値切ろうとしたのですが「300ドルでどうか?」と値段が1ドル値上がりしました。私は、即座にもう一枚の100ドル札を出して、結局、爺さんのいい値で南北朝時代(1334-1389年)に作られた重要美術品の日本刀を買い上げるのに成功したのです。
錆身だった刀身は研磨で綺麗になり、新しい鞘も工作し、鞘塗りもして新規の柄糸も巻いて、鍔もとり付けて展示しています。柄は2尺以上もある特別注文で長巻です。目貫は掟を破って、魚の形のを四個柄糸の下に付けてみました。この660年の古刀の造り込みは異風で、鵜の首造りです。どでかい短刀を見ているようです。
【例2】
1995年の4月。日本から修理修繕の修行をして帰米した私は、5月の始めのガンショウに参加しました。土曜日と日曜日の両日に備えて、金曜日の夕方にテーブルの設置が終了し、一般客のいないディ-ラーだけがいる会場で南カリフォルニアから来た日系人のウォレスさんのテーブルを訪れました。世間話をし、彼の持参した50振りほどの日本刀を吟味させて頂きました。その中に、刃長2尺1寸の1570年代頃(室町時代後期)の打ち刀(うちがたな)を発見しました。表側が鎬造りで、裏側が平造りの体配だったので「また米国人のど素人が、グラインダーで刀身を削って改ざんをしたな」と思いました。その打ち刀を再びテーブルに置いて、他の日本刀を拝見し始めると、その打ち刀が私を呼んでいるような声を出したので、もう一度その打ち刀を手にとって精査しました。なんとそれは、生茎(うぶなかご)で裏表の造りこみが全く違ってできていたのです。鎺金もそのように作られていました。
早速ウォレスさんと交渉して、850ドルの価格を下げてもらい600ドルで買い上げました。これは珍刀です。過去に見たことがなく、日本刀の本の中で写真が記載されていたのを見たことがあるだけでした。時代鑑定は、430年前に製作された打ち刀でした。地域鑑定は、備前(岡山県)か四国近辺です。刀匠は備前長船勝光または備前長船祐定あるいは阿波の海部鍛治の氏某です。薄ら錆身であったので、研磨をして綺麗にし特別の肌起こしの秘術も施しました。新規の白鞘も作製し、桑港刀剣協会の日本刀展示の時の看板の一つにさせていただきました。
【例3】
1997年の冬。9回にわたる修理修繕を習うための訪日を終えて帰米し、カウパレスのガンショウに参加しました。桑港剣術道場の生徒と桑港日本刀協会員が金曜日のテーブル設置を手伝ってくれ、終了後にウォレスさんのテーブルを訪問しました。
一通り日本刀を吟味した後、刀の拵え金具を見ているとウォレスさんがテーブルの下より、最近手に入れた長い刀を見せてくれました。銘は肥前国忠吉で、日本刀業界では五字忠(ごじただ)と呼ばれ優作刀です。価格は2600ドルでしたが、ウォレスさんは私がいつも買ってくれると言ってくれ、2300ドルにまけてもらい即座に買いました。他の刀剣関係の連中は、「偽名」と言っていたというので、買うときは「その偽名の刀を買わせてくれ」と言ったのを今でも覚えています。正真銘バリバリの刀を見て偽名と断定するのは最悪です。ど素人のすることです。銘が読めなくて漢字の意味がわからないど素人は、実に実にかわいそうです。
この肥前刀は初代忠吉が製作したもので、1990年代のあの頃は日本で1千万円で売れていたものでした。刃長は2尺4寸5分あり、切り先は伸びて身巾もたっぷりあり、作位は最上大業物です。日本一切れる刀です。鎺金は銀無垢で、豊臣家の家紋が彫ってありました。古い白鞘の鞘の部分には鞘書きがあり、柄がなくなっていました。この刀は、実を申しますと私に修理修繕を教えてくれている谷口師匠に贈り物として買い入れました。東京にいる師匠に電話で、五字忠を入手したことを告げました。後日、写真を撮って日本へ送りました。写真が日本に着き次第、師匠はあわてて電話をしてきて催促です。一週間後に贈ってあげました。大喜びしたそうです。年が明けて、私もまた修理修繕の勉強のため師匠の豪邸を訪れました。例の肥前国忠吉の正真刀を拝見したいとせがむと、もうあれは売ってしまったとのことでした。買い手は、ある政府の高官で価格は970万円で売ったそうです。修理修繕はお手の物の師匠です。大金が入ったと大喜びでした。「また五字忠を米国で見つけてくれ」と命令が下りました。刀は見つかりませんでしたが、師匠が他界してから脇差が見つかったので、喜ぶ顔が見られませんでした。
【例4】
2003年の夏。村正の妖刀の本を読んでいた私は、こんな刀があったらいいなあと思っていました。いつものように、展示用のテーブルの設置を金曜日の午後3時頃に終えて、日系人のウォレスさんのテーブルを訪問しました。いつものように刀剣類を吟味して、良さそうなのを買い上げようとしてしていた時、柄がない鞘だけの刃長2尺2寸の刀を発見。茎が丸見えだったのですぐに形だけで相州伝法の鍛治の作製と判断できました。銘は見えませんでしたが、消された後がありました。鞘を抜いて上半身を精査しました。刃紋は箱乱れで、ところどころにぐの目乱れがあり、裏表の刃紋が揃っていました。切り先は伸びて、南北朝時代風の影響が見られました。2000ドルの値段を、値切って1300ドルで買いました。夢に見ていた妖刀村正の刀を持てることになったのです。実に驚きです。私の日本刀の師匠であった得能一男(とくのかずお)先生によれば、村正は室町時代に五代続いて存在し、銘を見ただけでは代を鑑定できないそうで、他の鑑定の要点を吟味しなくてはだめだそうです。得能先生は、私の日本刀修理修繕の師匠の親友でした。この村正の刀も、桑港刀剣協会の看板のひとつになりました。
【例5】
2009年の11月7日と8日の両日。馴染み米国人ディーラーのクリスさんが金曜日の午後にテーブル設置をしていると、薄錆身で注文打ちの刃長2尺2寸5分の寛文時代(1661-1673年)の刀を持参。直ぐに茎先(なかごさき)の形と刃紋のパターンより「加賀の清光の作」と鑑ぜられました。最初は、慶長時代(1596-1615年)の新刀と思いましたが、反りの具合と体配より、やはり、時代鑑定は寛文でした。物打ちの辺に少し曲がりと捻りがあり、その場で私が修理しました。次の日の土曜日、内弟子のスティーブさんが、ガンショウの会場でこの刀の薄錆を落としてくれて、刃紋がもっと良く見えるようになりました。他の生徒や会員との話の種にもなり、会場が相当盛り上がりました。研磨の工程を見学していた人々から、質問もたくさんありました。研磨のデモを見て会員になった人も出たぐらいです。日曜日はクリスさんに刀を見せて、綺麗になった日本刀が喜んでいると告げました。もう少し、この日本刀の話を聞いてみると、2009年の10月に南カリフォルニアで開催された小さなガンショウで見つけたとのことで、海軍装の柄と鎺金しか付いていなかったそうでした。私は、この刀を買いたいことを告げると、1000ドルなら売ると言うので、即答でOKを出して買い入れました。
一週間後には鎺金製作が終わり、下地研磨も完了。仕事の合い間に少しずつ仕上げ研磨も施し、2010年の6月に脇差の清光と大小の対の黒塗り鞘も作製し、日本刀展示の看板の一つになりました。そのうち、江戸時代の大小金具を見つけて、本物の大小拵えもつけるつもりです。
余談ですが、カウパレスに四、五人の日本刀ディーラーが1985年頃からテーブルを出して日本刀を売っていましたが、かなり悪質なので、私は剣術の生徒と桑港日本刀協会員に警告を与えていました。日本刀の値段も高く、疵のある刀、脇差、短刀等を売るので、ガンショウを訪れる客も付かず、悪徳ディーラーはだんだんと商売も成り立たず、消滅してしまいました。残る二人はウォレスさんとクリスさんだけです。この二人は、奥さんらと近くのレストランにランチや夕食に行ったりしています。日本刀の修理修繕の仕事もかなりいただきました。刀の茎にある銘も読んでやっています。この二人のディーラーから掘り出し物が相当数出ました。カウパレスのガンショウを潰す計画もあったのですが、州知事がサインしませんでした。10年ぐらいは、このガンショウは継続しそうです。日本刀の掘り出し物まだまだ出てくるでしょうね。合掌する私です。
カウパレスのガンショウでは、年間5、6振りの堀出し物の日本刀が見つかります。一般客のいない金曜日の午後と夕方が発見の最良の時間帯です。