私の通った空手の道場
私の空手の先生は、横浜中華街に在った空手の道場長で、すごい人で、分かりやすい九州男児です。大分県で生まれ育った人でした。名前は五代正広です。五代先生は、19歳の若さで空手の先生をしていました。見た目は、背の丈が六尺あり35歳のおっさんのようでした。鹿児島県に住んでいた、宗家先生の内弟子でした。本部道場より宗家先生に命ぜられて、横浜にやって来ました。
鹿児島より横浜に到着してすぐに、近くにタムロしていたやくざやチンピラ達がこの恐ろしい先生に半殺しになるくらいにぶちのめされ始めました。生徒もこのチンピラ相手の喧嘩に参加させられ、黒帯になるための訓練場にもなりました。私も、何回か喧嘩の場所に遭遇しましたが、ただ単にものすごかったです。楽しかったです。耳を潰されたやくざが、警察に駆け込むこともなく、泣き寝入りです。五代先生は、どでかい足でやくざとチンピラの顔をメチャクチャに潰すのです。下駄を履いていて、顔を潰す時もありました。下駄の形が顔に食い込んでいたので、実におかしかったです。やくざとチンピラは、必ず病院入りです。肋骨が砕けたり、手、足、鼻、顔が潰れたり、いろんな人体の箇所が潰されていました。私もトドメを入れさせられました。すごく簡単です。地面に置かれた瓦を割るような感じでぶちのめすのです。私は、小さいときから暴力が大好きでした。良い機会を与えてくれた先生が大好きになりました。あの人は男の中の男です。
五代先生は素手の徒手空拳だけでなくて、古武道と武器の使い方にも長けていました。ヌンチャク、サイ術、棒術、鎖分銅術、中国の武器の三節コンの使い方にも長けていました。指圧も私に個人教授をしてくれ、三年半も伝授してました。五代先生は、私に1年3ヶ月の研修後に黒帯の初段を授けてくれました。15歳のときです。2年くらいで二段を頂きました。渡米後の2年後には、四段の称号をくれました。一応、道場長で先生になるには、四段でなくてはいけません。日本の武道界ではこれが掟です。
五代先生は、よく武者修行に出かけていました。だいたい一ヶ月から、長くて三ヶ月です。私と、神戸生まれで横浜中華街に住んでいた陳さんと、昼と夜の師範代を交代で行い、生徒の指導にあたっていました。陳さんは、私より一つ歳が上で法政大学に通っていました。空手の組み手が上手でした。私はいつも負けていました。私は軽量級で、陳さんは、中量級です。五代先生は重量級です。私は負けず嫌いで一生 懸命に練習に励みましたが、超人の二人に勝てるはずがないのです。五代先生が道場を留守にしていたときは、訪問者などに失礼の無い様に応対をしていました。生徒から受け取った月謝もかなりの額になり、道場に置いてあるともしものことがあるかもしれないので、すごい大金を私の家に持ってきて保管していました。お袋の清子さんが「どうしたのその大金」と聞くので「ヤーさんから預かっている」とうそをこくと、取り乱して泣いてしまいました。直ぐに泣くお袋です。悪い癖です。馬鹿な癖です。
道場で、夜に師範代をしているとたくさんの30歳前後のおっさん達が道場に通っていました。彼等は後輩です。帯の色も黒でなく、茶色、緑色、紫色です。彼等は、だいたいが中華街のレストランの料理長や料理人でした。昼飯は、いつも只で彼等の働くレストランで食べさせてもらいました。宴会があると、すごいご馳走を持ってきてくれました。宴会は、八割が下ネタの話で持ちきりです。笑っていました。私にはガールフレンドがいましたが、女性の経験が無かったので後輩のおっさん達の前で気まずい思いをしていました。しかし、年上の後輩よりも抜きん出たことがありました。それは酒を飲むことです。私の親父が奇人変人で、家でならどんな酒を飲んでもよろしいと言うのです。酔いつぶれたら直ぐに布団に飛び込んで寝ろなどと言うのです。そんな調子で11歳の頃からいろんな酒を家で飲んでいました。カクテルも自分で作って飲んでいました。13歳くらいで酒の味がわかっていました。フランスのコニャックのナポレオンが大好きでした。日本酒とビールはあまり好きではありませんでしたが、結構飲めました。ビールは、比国のサンミギエルとデンマークの象印のものがうまかったです。日本酒は、強いて言えば松竹梅が好きです。空手の道場では、年上のアホ後輩達が私を酔い潰そうと必死です。一度も負けたことがありません。二日酔いもしたこともありません。もちろん、私が家で親父と酒をガンガン飲んでいたことは絶対に言わなかったです。しかし、五代先生には、私がかなり酒が飲めると言っておきました。
歳食った空手道場での後輩のイデタチは、大体はヤーさん風でした。頭は角刈りか坊主です。一緒に山下町や元町の辺を歩いていると、私がヤーさんの親分の息子のように思われていたんです。その辺にタムロしていた、全然知らないチンピラなどが私に会釈をするので、おかしかったです。そのことを五代先生に言うと、ほとんど笑うことのなかった先生が大笑いです。あだ名も、その時から“坊ちゃん”にされました。歳食った後輩が、真顔で坊ちゃんと呼ぶので、知らない人は本当に私がやくざの組長の息子だと思っていました。
一度宴会があって、私のハーフのガールフレンドを道場に連れてきて紹介しました。みんなはびっくりです。プラチナ金髪の美人の姉ちゃんです。みんな「どうして師範代に、金髪のガールフレンドがいるの」と問いただしたそうな顔をしていました。五代先生には、宴会の少し前に彼女の写真などを見せて、マリーさんのことを話しておきました。ライバルの陳さんのうらやましそうな顔は今でも忘れません。あいつは空手はできるけど、女にもてません。そして、私がギターを弾いてGSグループのタイガースの曲「僕のマリー」を歌うと、またまたびっくりです。本当は、ギターよりピアノを習いたかったのですが、私の手が大きく指も太かったのでピアニストにはなれなかったのです。親父じゃないけど、畜生と言いたかったです。金髪の姉ちゃんを見た後輩の下ネタおじさん達の質問は、直ぐに察しました。「下の毛の色は上の毛と同じかい?」でした。この質問は、かなりの回数聞かれました。聞かれたことは、いつもちゃんとまじめに答えていました。その宴会の後、私のあだ名は坊ちゃん廃して“イロ男”になりました。
続
鹿児島より横浜に到着してすぐに、近くにタムロしていたやくざやチンピラ達がこの恐ろしい先生に半殺しになるくらいにぶちのめされ始めました。生徒もこのチンピラ相手の喧嘩に参加させられ、黒帯になるための訓練場にもなりました。私も、何回か喧嘩の場所に遭遇しましたが、ただ単にものすごかったです。楽しかったです。耳を潰されたやくざが、警察に駆け込むこともなく、泣き寝入りです。五代先生は、どでかい足でやくざとチンピラの顔をメチャクチャに潰すのです。下駄を履いていて、顔を潰す時もありました。下駄の形が顔に食い込んでいたので、実におかしかったです。やくざとチンピラは、必ず病院入りです。肋骨が砕けたり、手、足、鼻、顔が潰れたり、いろんな人体の箇所が潰されていました。私もトドメを入れさせられました。すごく簡単です。地面に置かれた瓦を割るような感じでぶちのめすのです。私は、小さいときから暴力が大好きでした。良い機会を与えてくれた先生が大好きになりました。あの人は男の中の男です。
五代先生は素手の徒手空拳だけでなくて、古武道と武器の使い方にも長けていました。ヌンチャク、サイ術、棒術、鎖分銅術、中国の武器の三節コンの使い方にも長けていました。指圧も私に個人教授をしてくれ、三年半も伝授してました。五代先生は、私に1年3ヶ月の研修後に黒帯の初段を授けてくれました。15歳のときです。2年くらいで二段を頂きました。渡米後の2年後には、四段の称号をくれました。一応、道場長で先生になるには、四段でなくてはいけません。日本の武道界ではこれが掟です。
五代先生は、よく武者修行に出かけていました。だいたい一ヶ月から、長くて三ヶ月です。私と、神戸生まれで横浜中華街に住んでいた陳さんと、昼と夜の師範代を交代で行い、生徒の指導にあたっていました。陳さんは、私より一つ歳が上で法政大学に通っていました。空手の組み手が上手でした。私はいつも負けていました。私は軽量級で、陳さんは、中量級です。五代先生は重量級です。私は負けず嫌いで一生 懸命に練習に励みましたが、超人の二人に勝てるはずがないのです。五代先生が道場を留守にしていたときは、訪問者などに失礼の無い様に応対をしていました。生徒から受け取った月謝もかなりの額になり、道場に置いてあるともしものことがあるかもしれないので、すごい大金を私の家に持ってきて保管していました。お袋の清子さんが「どうしたのその大金」と聞くので「ヤーさんから預かっている」とうそをこくと、取り乱して泣いてしまいました。直ぐに泣くお袋です。悪い癖です。馬鹿な癖です。
道場で、夜に師範代をしているとたくさんの30歳前後のおっさん達が道場に通っていました。彼等は後輩です。帯の色も黒でなく、茶色、緑色、紫色です。彼等は、だいたいが中華街のレストランの料理長や料理人でした。昼飯は、いつも只で彼等の働くレストランで食べさせてもらいました。宴会があると、すごいご馳走を持ってきてくれました。宴会は、八割が下ネタの話で持ちきりです。笑っていました。私にはガールフレンドがいましたが、女性の経験が無かったので後輩のおっさん達の前で気まずい思いをしていました。しかし、年上の後輩よりも抜きん出たことがありました。それは酒を飲むことです。私の親父が奇人変人で、家でならどんな酒を飲んでもよろしいと言うのです。酔いつぶれたら直ぐに布団に飛び込んで寝ろなどと言うのです。そんな調子で11歳の頃からいろんな酒を家で飲んでいました。カクテルも自分で作って飲んでいました。13歳くらいで酒の味がわかっていました。フランスのコニャックのナポレオンが大好きでした。日本酒とビールはあまり好きではありませんでしたが、結構飲めました。ビールは、比国のサンミギエルとデンマークの象印のものがうまかったです。日本酒は、強いて言えば松竹梅が好きです。空手の道場では、年上のアホ後輩達が私を酔い潰そうと必死です。一度も負けたことがありません。二日酔いもしたこともありません。もちろん、私が家で親父と酒をガンガン飲んでいたことは絶対に言わなかったです。しかし、五代先生には、私がかなり酒が飲めると言っておきました。
歳食った空手道場での後輩のイデタチは、大体はヤーさん風でした。頭は角刈りか坊主です。一緒に山下町や元町の辺を歩いていると、私がヤーさんの親分の息子のように思われていたんです。その辺にタムロしていた、全然知らないチンピラなどが私に会釈をするので、おかしかったです。そのことを五代先生に言うと、ほとんど笑うことのなかった先生が大笑いです。あだ名も、その時から“坊ちゃん”にされました。歳食った後輩が、真顔で坊ちゃんと呼ぶので、知らない人は本当に私がやくざの組長の息子だと思っていました。
一度宴会があって、私のハーフのガールフレンドを道場に連れてきて紹介しました。みんなはびっくりです。プラチナ金髪の美人の姉ちゃんです。みんな「どうして師範代に、金髪のガールフレンドがいるの」と問いただしたそうな顔をしていました。五代先生には、宴会の少し前に彼女の写真などを見せて、マリーさんのことを話しておきました。ライバルの陳さんのうらやましそうな顔は今でも忘れません。あいつは空手はできるけど、女にもてません。そして、私がギターを弾いてGSグループのタイガースの曲「僕のマリー」を歌うと、またまたびっくりです。本当は、ギターよりピアノを習いたかったのですが、私の手が大きく指も太かったのでピアニストにはなれなかったのです。親父じゃないけど、畜生と言いたかったです。金髪の姉ちゃんを見た後輩の下ネタおじさん達の質問は、直ぐに察しました。「下の毛の色は上の毛と同じかい?」でした。この質問は、かなりの回数聞かれました。聞かれたことは、いつもちゃんとまじめに答えていました。その宴会の後、私のあだ名は坊ちゃん廃して“イロ男”になりました。
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