生徒のブルースさん
ブルースさんに初めて会ったのは1974年の春でした。15歳のメキシコ人の兄ちゃんと道場に来て練習に励んでいました。入門時に書き込んだ会員用書類の職業欄に車のメカニックと書いてあったのを覚えています。
同年の秋ごろ、私の車のGenerator Warning Lightが急に点滅して、赤いランプがずっとつきっぱなしなり、一日経ってちょっと心配になったので、North BeachのChinatown近くのガレージに持って行き相談しました。二人組みの東洋人の兄弟が経営する修理屋で、なんかウサン臭い信用できない顔の二人組みでした。私の母がいつも口癖で言っていたことを即座に思い出しました。人を見たら泥棒と思え。二人の兄弟が大げさな態度で言いました。「スターター、ジェネレーター、ヴォルテージレギュレーターの三つの部品を取り変えなくては車はそのうち止まるだろう」と脅し文句で言うのです。修理代は110ドルだと言い張ったので、私はまた来ますと言ってそのガレージを出て帰途につきました。私の車は1971年の11月に、日本の父上様から送金があり新車で買い、三年後のその時点でほとんどMileage も少なく新車みたいだったので、新しい部品を三箇所変えなくてはいけないなんてありえないと思っていました。車種は、独国製のVW Super Beetleで色は濃紺です。
その日の夕方道場へ行き、練習後に生徒と車関係の話をしていると、丁度居合わせていたブルースさんが、実は俺はVW の専門のメカニックと言い出すので、彼の修理修繕所で予約をとって車を見てもらうことにしました。二日後の土曜日の朝一番にブルースさんのガレージへ出かけ、車を見てもらいました。場所は、墓場で有名なColma, Daly Cityです。ブルースさんはジェネレーターの裏を覗きながら、小さな鏡を使って小さな部品を取り替えたのが見てとれました。費やした時間は約3分でした。ブラッシュと呼ばれる部品を取り変えたと言いました。手数料の値段は幾らと聞くと、即答で60セントと言いました。この日から私はブルースさんの終身顧客となったのです。
そして、VWの修理修繕もブルースさんから習い、自分の車をほとんど全て直せるように訓練させていただきました。彼のアドバイスも全部聞き入れて、VW Beetleにポルシェ912のエンジンを積んで乗り回していました。尋常のVWは、エンジンの大きさは1600ccでキャブレター一つです。ポルシェのエンジンは1700ccで二つキャブレターが付いています。それ以来ブルースさんから、いろいろな車種のVWを買って楽しんでいました。空冷で、ラジエーターがないのがVWとポルシェの古い車の特徴です。水の心配はバッテリーだけです。エンジンオイルを2000マイルごとに取り替えれば30万マイルは走行します。
1979年にVWのVanを買いました。3ヶ月後にエンジンが壊れ、ポルシェ914の2リッターエンジンを搭載してサンフランシスコの坂を猛烈なスピードで飛ばしています。1986年にVW Kharman Ghiaのスポーツカーをブルースさんから買いました。ワイフのクララさんが持っていた、黄色のVW Beetleが壊れたので、緑色のKharman Ghiaを彼女のために買いました。いきなり保険が800ドルから2000ドルになったので、保険屋を経営していたクララさんのお父上様が支払いを拒んだので、私の紺色のVW Beetleを彼女にあげて、Kharman Ghiaはポルシェの914の2リッターエンジンを入れて私が乗り回しています。1990年には、あるオークションで1973年製のVW Thingを1000ドルで買いました。すぐにポルシェ914の1.8リッターエンジンをブルースさんから買い入れました。その後、ブルースさんから二台のVWのトラックを買いました。1968年製のロングベッドのトラックと1982年製の水冷エンジンのVanagonトラックです。これは珍しい車種で4ドアが付いています。尋常のアメリカ向けのVanagonトラックは3ドアです。1971年製の濃紺Super Beetleは、我が最愛の奥様が現在でも乗っています。最近は長男が自動車免許証をとったので、濃紺色Super Beetleに乗っています。息子は1974年製のKharman Ghiaがほしいみたいで、いつも見ています。狙われています。今、家には8台の車があります。あとの二台は自分で修理修繕ができないイタリア車スポーツカーと日本車Toyota Truckです。この二台の車はブルースさんに修理修繕等を任せています。
余談ですが、日本に住んでいたら古い車は維持するのがたいへんらしいですね。また、自分で修理修繕をするとおこられるらしいです。政府と車の会社がつるんでいるのでしょう。険しい車検はあるし、保険料金は高いし、ガソリンも高いし、道路はシンドイし、日本は車を持つべき国ではないでしょう。新天地のアメリカに来て実に良かったです。
同年の秋ごろ、私の車のGenerator Warning Lightが急に点滅して、赤いランプがずっとつきっぱなしなり、一日経ってちょっと心配になったので、North BeachのChinatown近くのガレージに持って行き相談しました。二人組みの東洋人の兄弟が経営する修理屋で、なんかウサン臭い信用できない顔の二人組みでした。私の母がいつも口癖で言っていたことを即座に思い出しました。人を見たら泥棒と思え。二人の兄弟が大げさな態度で言いました。「スターター、ジェネレーター、ヴォルテージレギュレーターの三つの部品を取り変えなくては車はそのうち止まるだろう」と脅し文句で言うのです。修理代は110ドルだと言い張ったので、私はまた来ますと言ってそのガレージを出て帰途につきました。私の車は1971年の11月に、日本の父上様から送金があり新車で買い、三年後のその時点でほとんどMileage も少なく新車みたいだったので、新しい部品を三箇所変えなくてはいけないなんてありえないと思っていました。車種は、独国製のVW Super Beetleで色は濃紺です。
その日の夕方道場へ行き、練習後に生徒と車関係の話をしていると、丁度居合わせていたブルースさんが、実は俺はVW の専門のメカニックと言い出すので、彼の修理修繕所で予約をとって車を見てもらうことにしました。二日後の土曜日の朝一番にブルースさんのガレージへ出かけ、車を見てもらいました。場所は、墓場で有名なColma, Daly Cityです。ブルースさんはジェネレーターの裏を覗きながら、小さな鏡を使って小さな部品を取り替えたのが見てとれました。費やした時間は約3分でした。ブラッシュと呼ばれる部品を取り変えたと言いました。手数料の値段は幾らと聞くと、即答で60セントと言いました。この日から私はブルースさんの終身顧客となったのです。
そして、VWの修理修繕もブルースさんから習い、自分の車をほとんど全て直せるように訓練させていただきました。彼のアドバイスも全部聞き入れて、VW Beetleにポルシェ912のエンジンを積んで乗り回していました。尋常のVWは、エンジンの大きさは1600ccでキャブレター一つです。ポルシェのエンジンは1700ccで二つキャブレターが付いています。それ以来ブルースさんから、いろいろな車種のVWを買って楽しんでいました。空冷で、ラジエーターがないのがVWとポルシェの古い車の特徴です。水の心配はバッテリーだけです。エンジンオイルを2000マイルごとに取り替えれば30万マイルは走行します。
1979年にVWのVanを買いました。3ヶ月後にエンジンが壊れ、ポルシェ914の2リッターエンジンを搭載してサンフランシスコの坂を猛烈なスピードで飛ばしています。1986年にVW Kharman Ghiaのスポーツカーをブルースさんから買いました。ワイフのクララさんが持っていた、黄色のVW Beetleが壊れたので、緑色のKharman Ghiaを彼女のために買いました。いきなり保険が800ドルから2000ドルになったので、保険屋を経営していたクララさんのお父上様が支払いを拒んだので、私の紺色のVW Beetleを彼女にあげて、Kharman Ghiaはポルシェの914の2リッターエンジンを入れて私が乗り回しています。1990年には、あるオークションで1973年製のVW Thingを1000ドルで買いました。すぐにポルシェ914の1.8リッターエンジンをブルースさんから買い入れました。その後、ブルースさんから二台のVWのトラックを買いました。1968年製のロングベッドのトラックと1982年製の水冷エンジンのVanagonトラックです。これは珍しい車種で4ドアが付いています。尋常のアメリカ向けのVanagonトラックは3ドアです。1971年製の濃紺Super Beetleは、我が最愛の奥様が現在でも乗っています。最近は長男が自動車免許証をとったので、濃紺色Super Beetleに乗っています。息子は1974年製のKharman Ghiaがほしいみたいで、いつも見ています。狙われています。今、家には8台の車があります。あとの二台は自分で修理修繕ができないイタリア車スポーツカーと日本車Toyota Truckです。この二台の車はブルースさんに修理修繕等を任せています。
余談ですが、日本に住んでいたら古い車は維持するのがたいへんらしいですね。また、自分で修理修繕をするとおこられるらしいです。政府と車の会社がつるんでいるのでしょう。険しい車検はあるし、保険料金は高いし、ガソリンも高いし、道路はシンドイし、日本は車を持つべき国ではないでしょう。新天地のアメリカに来て実に良かったです。