2005年5月10日(火)
刀のはなし28
美濃伝
美濃伝鍛冶の祖は、鎌倉時代の初めに大和鍛冶の千手院(せんじゅいん)重弘が美濃の赤坂に移住して泉水と名乗り、赤坂鍛冶を興したのに始まります。本格的な美濃伝鍛冶の活躍は、志津三郎兼氏、金重の来住からです。これは南北朝時代です。
美濃伝は室町時代の戦国期に急激に発展した流派で、大和伝と相州伝の二つの伝法が加味されています。美術的価値の低い作品です。これは、戦国時代には大量生産を行っているためです。
美濃伝は五カ伝中で一番新しい流派で、今の岐阜県の関市で鍛刀されたので関物とも呼ばれています。戦国時代の豪将のほとんどが関鍛冶の得意先となり、多くの刀が注文されました。織田信長も美濃伝の刀を贈答品として利用していました。
美濃伝鍛冶は関市を中心として互いに親族関係、師弟の交流をはかり、また一団となって統括的な製作、販売機構をも築き、戦国武士などへの実用刀を供給していました。1582年の織田信長の暗殺後、美濃伝鍛冶は各地に分散していき、衰退の路を辿っていきました。
美濃伝の刀の体配は実用的な反りの少ない尋常な姿、格好で刃紋は焼き刃が浮き上がった尖り刃、湾れ、箱乱れ刃を焼いています。また刃紋の表裏がよく揃っています。鋩子は地蔵風に返り、棟寄りにかたく止まります。地鉄は杢目肌か板目肌で、鎬地は柾目です。棟は尋常な庵棟です。行の棟とも呼ばれます。彫刻はまれで、棒樋があるくらいです。茎は桧垣か鷹の羽根です。
現存の3割弱が美濃伝鍛冶によって製作されています。ほとんどが、侍がニ本指しをするようになった応永時代以降のものです。応永時代以降の一級品はむしろ関市で製作されず、他国の鍛冶系によるものです。美濃鍛冶の他国鍛冶は、30以上に及んでいます。金重一派、善定一派、寿命系、兼定系、兼元系、兼房系、兼道系等です。 美濃鍛冶の名前は8割以上が、兼何某と称されています。これは南北朝時代に大和手掻(てがい)一派の兼氏が美濃に来住したためです。美濃刀は切れ味も抜群で、茎には試し切り銘が金象眼されており、五ツ胴切り落としとなるとほとんど軽眼しません。しかし、現存刀には七ツ胴切り落としがあり、これは美濃の兼房の刀です。
美濃伝
美濃伝鍛冶の祖は、鎌倉時代の初めに大和鍛冶の千手院(せんじゅいん)重弘が美濃の赤坂に移住して泉水と名乗り、赤坂鍛冶を興したのに始まります。本格的な美濃伝鍛冶の活躍は、志津三郎兼氏、金重の来住からです。これは南北朝時代です。
美濃伝は室町時代の戦国期に急激に発展した流派で、大和伝と相州伝の二つの伝法が加味されています。美術的価値の低い作品です。これは、戦国時代には大量生産を行っているためです。
美濃伝は五カ伝中で一番新しい流派で、今の岐阜県の関市で鍛刀されたので関物とも呼ばれています。戦国時代の豪将のほとんどが関鍛冶の得意先となり、多くの刀が注文されました。織田信長も美濃伝の刀を贈答品として利用していました。
美濃伝鍛冶は関市を中心として互いに親族関係、師弟の交流をはかり、また一団となって統括的な製作、販売機構をも築き、戦国武士などへの実用刀を供給していました。1582年の織田信長の暗殺後、美濃伝鍛冶は各地に分散していき、衰退の路を辿っていきました。
美濃伝の刀の体配は実用的な反りの少ない尋常な姿、格好で刃紋は焼き刃が浮き上がった尖り刃、湾れ、箱乱れ刃を焼いています。また刃紋の表裏がよく揃っています。鋩子は地蔵風に返り、棟寄りにかたく止まります。地鉄は杢目肌か板目肌で、鎬地は柾目です。棟は尋常な庵棟です。行の棟とも呼ばれます。彫刻はまれで、棒樋があるくらいです。茎は桧垣か鷹の羽根です。
現存の3割弱が美濃伝鍛冶によって製作されています。ほとんどが、侍がニ本指しをするようになった応永時代以降のものです。応永時代以降の一級品はむしろ関市で製作されず、他国の鍛冶系によるものです。美濃鍛冶の他国鍛冶は、30以上に及んでいます。金重一派、善定一派、寿命系、兼定系、兼元系、兼房系、兼道系等です。 美濃鍛冶の名前は8割以上が、兼何某と称されています。これは南北朝時代に大和手掻(てがい)一派の兼氏が美濃に来住したためです。美濃刀は切れ味も抜群で、茎には試し切り銘が金象眼されており、五ツ胴切り落としとなるとほとんど軽眼しません。しかし、現存刀には七ツ胴切り落としがあり、これは美濃の兼房の刀です。