数学が得意な私
小学校の時は算数の科目が大好きでした。中学一年になると、数学のクラスの級友に、ガリ勉の田辺雅子を見い出しました。席はすぐ隣に座っていました。テストがあると、私達は何時も第一位と二位を争っていました。『オンナなんかに、負けたくない。』と、何時も思ってテストに臨んでいました。方程式を解くテストの100点と99点の争いが半年程続きました。
雅子嬢は、小学校の時は勉強があんまりできなかったそうです。彼女のお母さんが東横線の元住吉駅の近くで、ジャン荘を経営していました。化粧がどぎつくて、ヤーさんの彼女みたいでした。雅子嬢の顔は悪くなく、ブスではありませんでしたが、顔中にたくさんのニキビがありました。お面の具合の点数をあげるとかなりの上位です。セーラー服が似合うまじめな女子中学生の感がありました。何時も、どデカイ重い皮のカバンをぶら下げて通学していました。雨の日は、カバンにピンク色のプラスチックのカバーを掛けて、カバンの濡れを雨から守っていました。私は、教科書を全部学校において通学していました。身軽な通学です。
夏休みが始まり、ライバルの雅子嬢ともしばらくお別れです。しかし、家の近くの橋の上で劇的な再会を致しました。
家の近くに川があって、橋が架かっています。名前は大正橋です。小学校3年生の春より、この川崎市と横浜市の両方に近い地域に東京の板橋区から引っ越してきた時は、大正橋は古ぼけた石の橋でした。私が小学校6年生の時に、大正橋が鉄筋コンクリートで新築されました。夏休みは、自転車で上流の方へよく行っていました。昭和橋です。昭和橋の近くにあった雑貨屋店の二階に住む台湾人の星君がいたので、チャリンコに乗って遊びに行っていました。大正橋の下流方の橋は上田橋です。橋と橋の間には、あぜ道とどてがあって、川の両側には大きな桜の木が列を並んで植えてあり、春になると、あぜ道の下に畑があったので、満開の桜を見て酒盛りをし、昼食持参の観光客のような人びとがたくさん現れていました。
夏も終わりになっていたある日に、チャリンコに乗って大正橋から上流の昭和橋に行くと、昭和橋の真ん中辺で雅子嬢とばったり会いました。私達はしばらくの間、くだらん話をして別れましたがなんか映画の一コマのような風景です。夏が終わり、また、数学テストのライバルの闘争が始まりました。中学二年になると、雅子嬢は転校して行き、私は何か悔しさと哀愁を覚えました。ライバルがいないので、あまり数学の勉強はしなくなりました。中学三年の頃は、微分方程式と積分方程式を自分で勉強していました。家を訪れた親父の知人の東京大学教授が、私の数学の知識力にビックリしていました。
高校の一年になると、大学附属の男子高校に通いました。勉強は、クラスで何時も上位から五番目でした。数学は誰にも負けなかったです。高校二年生の時は、隣に根元君が座っていて、常時、数学の科目で競っていました。ある時、数学の先生がいきなり問題を出してクラス40人の私達を驚かせました。数学の問題は2問だけです。根本君と私が一問ずつ正解を出しましたが、一問づつの正解だったので50点でした。クラス40人中の38人がゼロ点でした。俺達の正解の回答をテスト中に覗きあっていたら、『100点満点が可能だったね』と、後で二人で笑っていました。本当は、私は二問目にも手がけていて、半分は終わっていましたが、時間切れで一問正解でした。
高校三年生の時は、大学の進学があり私も理科系の工学部に進む予定でしたが、アメリカ留学で決まっていた大学を中退の形で去りました。高校三年生の卒業のまじかの頃は、ある大学の三年生に数学を教えていました。『鈴木さん』という人でした。この人は、通っていた空手道場の先輩でもあり段位は黒帯の三段でした。家の事情があって、両親とは一緒に住んでなく母方のお婆さんと横浜の元町の近くに住んでいました。鈴木さんのお婆さんの家で、数学と英語の勉強会を行っていました。鈴木さんは、高校は元町の坂の上にあった外人墓地の近くのアメリカンハイスクールに通っていました。鈴木さんと双子の兄弟2人の日本人が、アメリカンハイスクールを卒業後に、学校の規則が変わってアメリカンスクールには外国人でないと入学できないことになったそうです。大学生なのに、鈴木さんの数学の理解力は中学二年生程度でした。でも、私に英語をよく教えてくれていました。月謝は無しでブツブツ交換でした。鈴木さんの影響で、私はMIT(マサチューセッツ工科大学)に入学する夢を持つようになりました。入学に必要な大学申請用紙も、鈴木さんがアメリカより取り寄せてくれました。今だに、この大学申請用紙を持っています。
最近は、次男の数学を見てやっていますが、実のところ簡単すぎて、あほらしく思っています。やっぱり、日本の学校で習う数学の方がアメリカの数学のレベルよりずっと高いです。
雅子嬢は、小学校の時は勉強があんまりできなかったそうです。彼女のお母さんが東横線の元住吉駅の近くで、ジャン荘を経営していました。化粧がどぎつくて、ヤーさんの彼女みたいでした。雅子嬢の顔は悪くなく、ブスではありませんでしたが、顔中にたくさんのニキビがありました。お面の具合の点数をあげるとかなりの上位です。セーラー服が似合うまじめな女子中学生の感がありました。何時も、どデカイ重い皮のカバンをぶら下げて通学していました。雨の日は、カバンにピンク色のプラスチックのカバーを掛けて、カバンの濡れを雨から守っていました。私は、教科書を全部学校において通学していました。身軽な通学です。
夏休みが始まり、ライバルの雅子嬢ともしばらくお別れです。しかし、家の近くの橋の上で劇的な再会を致しました。
家の近くに川があって、橋が架かっています。名前は大正橋です。小学校3年生の春より、この川崎市と横浜市の両方に近い地域に東京の板橋区から引っ越してきた時は、大正橋は古ぼけた石の橋でした。私が小学校6年生の時に、大正橋が鉄筋コンクリートで新築されました。夏休みは、自転車で上流の方へよく行っていました。昭和橋です。昭和橋の近くにあった雑貨屋店の二階に住む台湾人の星君がいたので、チャリンコに乗って遊びに行っていました。大正橋の下流方の橋は上田橋です。橋と橋の間には、あぜ道とどてがあって、川の両側には大きな桜の木が列を並んで植えてあり、春になると、あぜ道の下に畑があったので、満開の桜を見て酒盛りをし、昼食持参の観光客のような人びとがたくさん現れていました。
夏も終わりになっていたある日に、チャリンコに乗って大正橋から上流の昭和橋に行くと、昭和橋の真ん中辺で雅子嬢とばったり会いました。私達はしばらくの間、くだらん話をして別れましたがなんか映画の一コマのような風景です。夏が終わり、また、数学テストのライバルの闘争が始まりました。中学二年になると、雅子嬢は転校して行き、私は何か悔しさと哀愁を覚えました。ライバルがいないので、あまり数学の勉強はしなくなりました。中学三年の頃は、微分方程式と積分方程式を自分で勉強していました。家を訪れた親父の知人の東京大学教授が、私の数学の知識力にビックリしていました。
高校の一年になると、大学附属の男子高校に通いました。勉強は、クラスで何時も上位から五番目でした。数学は誰にも負けなかったです。高校二年生の時は、隣に根元君が座っていて、常時、数学の科目で競っていました。ある時、数学の先生がいきなり問題を出してクラス40人の私達を驚かせました。数学の問題は2問だけです。根本君と私が一問ずつ正解を出しましたが、一問づつの正解だったので50点でした。クラス40人中の38人がゼロ点でした。俺達の正解の回答をテスト中に覗きあっていたら、『100点満点が可能だったね』と、後で二人で笑っていました。本当は、私は二問目にも手がけていて、半分は終わっていましたが、時間切れで一問正解でした。
高校三年生の時は、大学の進学があり私も理科系の工学部に進む予定でしたが、アメリカ留学で決まっていた大学を中退の形で去りました。高校三年生の卒業のまじかの頃は、ある大学の三年生に数学を教えていました。『鈴木さん』という人でした。この人は、通っていた空手道場の先輩でもあり段位は黒帯の三段でした。家の事情があって、両親とは一緒に住んでなく母方のお婆さんと横浜の元町の近くに住んでいました。鈴木さんのお婆さんの家で、数学と英語の勉強会を行っていました。鈴木さんは、高校は元町の坂の上にあった外人墓地の近くのアメリカンハイスクールに通っていました。鈴木さんと双子の兄弟2人の日本人が、アメリカンハイスクールを卒業後に、学校の規則が変わってアメリカンスクールには外国人でないと入学できないことになったそうです。大学生なのに、鈴木さんの数学の理解力は中学二年生程度でした。でも、私に英語をよく教えてくれていました。月謝は無しでブツブツ交換でした。鈴木さんの影響で、私はMIT(マサチューセッツ工科大学)に入学する夢を持つようになりました。入学に必要な大学申請用紙も、鈴木さんがアメリカより取り寄せてくれました。今だに、この大学申請用紙を持っています。
最近は、次男の数学を見てやっていますが、実のところ簡単すぎて、あほらしく思っています。やっぱり、日本の学校で習う数学の方がアメリカの数学のレベルよりずっと高いです。